ママ選手の先駆け「小野清子さん」逝去 幼子を連れて練習へ…語っていた当時の苦労
幼子と同伴練習
「子供を犠牲にしてまでスポーツをするなんて、バカじゃないの!」
面と向かってそう言われたことはありませんが、東京オリンピックの頃までは、世の中全体にそんな空気があったのも本当です。
それでも日本体操協会が強く出場を要請してきたのは、「若い選手は大舞台でミスが出やすいので、小野さんや池田敬子さんのようなベテランがチームにいてくれないと困る」という理由からでした。
主人(男子体操代表の小野喬さん)の「やってみてダメなら、それでいいんじゃないの。あなたの挑戦する姿を見せることで、若い人も育つだろうから」との言葉も、背中を押してくれました。
同時に、やるならば、当時の強豪国のソ連、ベラ・チャスラフスカ選手のいたチェコスロバキアに次いで3位に入らなければ、私が役に立てたことにはならないという思いも、密かに抱いていました。
最初にしたのは、地元の秋田の新聞に“お手伝いさん募集”の求人広告を出すこと。オリンピックに向けての練習となると、これまでのように、その都度、母たちに子供を預けてというわけにはいきませんから。幸い、22歳の農家の娘さんが来てくれることになりました。
でも、長男の出産から4カ月後、久しぶりに体育館に出て愕然としました。腹筋がなくなっていて、お腹もダブダブでしたし、ブリッジをしても体が反らずに“Uの字”にならなくて“門構え”になってしまう。妊娠、出産で体を動かさないでいたダメージは、想像以上に速いスピードで進んでいたんです。
また、授乳しながらでしたから、左右のおっぱいの大きさが違ってしまっていて、レオタードを着る競技だけに新たな悩みにもなりました。
〈2次選考会では9位だったが、並外れた集中力で最終選考までの1カ月で立ち直り、代表入りを果たした。
ちなみに、池田敬子さん(86)は、東京五輪で3大会連続オリンピック出場を果たした先輩選手だった。最終的に、女子体操では、6人の代表選手のうち4人がミセス、小野さん、池田さんには2人の子供がいた。
女子バレーボール代表の“東洋の魔女”たちが「オリンピックが終わるまで結婚も出産も我慢」で奮闘したという逸話との違いに驚くが。〉
私が思うに、特にバレーボールは、東京大会で初めて採用された競技でしたから、チーム全体の流れや方針に従うしかなかったのでは。一方、体操は五輪競技としての歴史があったので、選手個人の裁量で練習と私生活との配分をする習慣ができていました。
とはいえ、やっぱり、子育てとの両立はいちばんの難題でした。練習に出ていこうとすると、子供は「ワーッ」と泣くわけです。
「泣く子を置いてまで練習して、五輪に出るのはイヤだ」
つい、主人に弱音を吐くと、
「じゃあ、やめれば」
驚くほど淡々と言うんです(笑)。それから、
「子供たちが将来、『おまえがいたから、ママはオリンピックをあきらめた』と言われるのと、『おまえがいたから、頑張れたんだよ』と言われるのとでは、どっちがいいと思う?」
いつもそうですが、「こうしなさい」ではなく、何気ない主人のひと言で前に進んでいたように思います。
それでも、1歳の長男は、泣いても母やお手伝いさんが預かってくれましたが、3歳になる長女は、もう追いかけてきますから、練習にも連れていくしかなかったんです。
体育館で、私が平均台から落ちたときに、危うく子供に乗っかりそうになってヒヤリとしたり。跳馬の助走では、「ママーっ!」と一緒についてこられる場面もありました。
もちろん、子供同伴の練習では、いろんな工夫もしました。跳び箱の一番上の段を裏返しにして、長女をその中で遊ばせたり。おやつは、甘栗。剥くのに時間がかかるし、指先の刺激にもなりますよね。
どんなに疲れていても、育児日記は欠かさずつけていました。こうやって集中したり、時間の配分をする知恵を、逆に、子育てと練習の両立のなかから学ばせてもらったように思います。
体操選手、スポーツ選手として、いちばんやってはいけないのが、練習で落ち込んだときに、その気持ちを持ち越すことです。でも、帰宅して子供の顔を見て「ママ!」の声を聞いて抱っこした瞬間、サーッと気持ちが切り替わる。この頭の切り替えも、子供のおかげ。
主人の子育ての支えですか? 正直に申し上げて、主人は子育てにはほとんど参加していません(笑)。できませんでしたよね。まあ、当時は日本中のお父さんがそうだった時代でした。
主人は、男子体操のリーダー的存在でしたし、日曜も練習でした。だから、私たち夫婦の練習する体育館に、子供たちを連れていくこともありました。わが家の家族団らんは、もっぱら体育館でしたね(笑)。
自分が母親になったタイミングで、東京にオリンピックがやってきて、そこに選手として参加できたのは、私の競技者人生でラッキーでした。
当時から、ソ連には立派な国立の託児所があったのですが、日本はそうではなかった。そんな現状を、ソ連の選手に話したら、
「ほんとうによくやりますね。託児所がなければ、私は体操を続けられなかったわ」
お母さん選手、いま風に言えば、ママアスリートだった私は、日本でもやればできるんだぞという証明のために、フロンティア精神で頑張ってきたという自負もあります。
そうやって自分のペースでできたという意味でも、東京でオリンピックがあってよかった。すでに2人の子供がいましたから、遠い、よその国での開催だったら、出場の決心がつかなかったかもしれません。
〈東京オリンピックでのメダル獲得を花道に夫婦で引退した後は、これも夫婦で、民間の「池上スポーツ普及クラブ」を創設。やがて2男3女の母親となり、赤ちゃん連れで、日本のスポーツ普及に奔走する。
日本オリンピック委員会(JOC)の理事に女性として初めて選ばれるなどして、50歳で参議院議員選挙で初当選。6年後の再選時には、夫の喬さんは、「公務員だと選挙応援ができない」と、国立鹿屋(かのや)体育大学教授の職を辞して、妻を応援。体操選手としてずっと夫唱婦随でやってきたのが、ここで“婦唱夫随”に逆転したわけだ。
その後も、スポーツくじ「toto」の成立などに尽力。2016年には国際オリンピック委員会(IOC)よりオリンピック功労賞を受けている。〉
政治活動でも、体操の頃と同様に、主人も子供たちも、私の負担を少しでも軽くしようとして、なにかと協力してくれました。
体操の世界も、すっかり様変わりしました。もう私たちのときのように、1回ひねりを入れて、1回宙返りを入れて、ではすまない(笑)。
若いママアスリートたちに言いたいのは、「なるようにしかならない」ということ。そう、あのマンジャーレ精神ですね。でも、けっして投げやりという意味ではなく、頑張りすぎず、周囲への感謝も忘れずに、自分のペースで全力を出してもらいたい。それができるのも、ママさん選手の強み。女性は結婚や出産で、ひと回りも、ふた回りも、しなやかに、したたかになれるものですから。
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