甲子園にゾウが登場、開会式当日に出場辞退…センバツを巡る“驚くべき騒動”

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早々に退場

 1915年に第1回大会が始まり、今年で93回目を数える選抜高校野球。戦争やコロナ禍などによる中断・中止も含めて100年以上にわたる長い歴史の中には、「本当にそんなことがあったのか」と驚かされるような事件やエピソードも数多くある。

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 遊園地のゾウが地元チームの応援に駆り出される珍事が起きたのは、1951年の第23回大会だった。この年初出場をはたした地元・兵庫県の鳴尾高は、1回戦でいきなり甲子園の常連校で夏に優勝経験もある静岡城内高(現静岡高)と対戦することになった。

 名うての強豪が相手だけに、「地元の利を生かして応援で圧倒しよう」と考えた応援団長は、同校に隣接する阪神パークと交渉の末、メスのアジアゾウ、アキ子(当時の報道では「あき子」)を借りてきて、甲子園に入場させた。

 背中に応援団長を乗せてグラウンドに足を踏み入れたアキ子は、長い鼻と巨体を揺らしながら、応援の生徒や父母らで埋め尽くされた一塁側・鳴尾高スタンドの下をのっしのっしと行進。同年4月7日付の神戸新聞も「象さんも。鳴尾応援」の見出しで軽快なタッチの記事を掲載している。だが、いくら人に慣れているとはいえ、度を越したパフォーマンスは、高野連の顰蹙を買い、早々に退場を命じられたという。

 しかし、その応援効果たるや絶大で、試合は、エース・野武貞次がノーヒットノーランの快投を見せ、5対0で甲子園初勝利。勢いに乗った同校は準優勝し、後に藤尾茂(巨人)、中田昌宏(阪急)ら4人がプロ入りした。ちなみにアキ子は、03年の阪神パーク閉園後、千葉県の「市原ぞうの国」と「勝浦ぞうの楽園」で余生を送り、06年7月に天寿を全うしている。

「ナインの一生を台無しに」

 開会式のリハーサルに参加したチームが、開会式当日になって出場辞退する悲劇が起きたのが、75年の第47回大会だった。前年秋の九州大会を制し、初のセンバツ代表に選ばれた門司工(現豊国学園)は、大会第3日に静岡商との対戦が決まっていた。

 ところが、開幕前日の3月27日、野球部とは無関係の在校生2人が住居侵入と婦女暴行未遂の容疑で逮捕されたことから、事態は暗転する。

 当初、高野連側は同校を翌日の開会式に参加させ、試合に出場させるかどうかは緊急会議で決定する意向だったが、翌日の早朝、事件の社会的影響を考慮した浜田亘校長が辞退を申し入れ、受理された。浜田校長は「ナインの一生を台無しにした」と沈痛な表情で語り、高野連・佐伯達夫会長も「事件の内容を見ると、慰留のしようがない」と苦渋の選択だったことを明かした。

 このとき、選手たちは芦屋市の宿舎にいたが、戻ってきた浜田校長から「みんなすまない。今日の開会式にも試合にも、もう出られない」と告げられると、大きなショックを受け、腕で涙を拭う者、床に突っ伏して泣く者、一様に悲しみにくれた。河崎波治監督も目を真っ赤にして「慰めようがない。ただ、ただ残念です」と声を震わせた。

 現在は野球部員による不祥事が起きても、当該部員のみの処分で、連帯責任までは問われない対応も見られるだけに、何事も規律優先の不条理な時代だったと言わざるを得ない。

 門司工に代わって、補欠校1位の佐世保工が繰り上げ出場したが、翌29日に大阪入りし、ナイターで甲子園練習を行ったあと、翌日に試合という慌ただしさ。こちらも“大人たちの事情”に振り回された感は否めなかった。

 その一方で、同年は心温まるエピソードもあった。初出場の沖縄・豊見城高が、年齢制限で試合に出場できなくなった投手の亀谷興勝を監督として登録したのだ。センバツ史上最年少の19歳の監督は、「退部させるのは可哀想」と気遣った栽弘義監督の計らいによるものだった。沖縄水産高時代も含めて甲子園に通算18回出場した名将も、このような事情から、初出場時は部長としてベンチ入りしている。

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