アリババ凋落とトップIT経営者サークル「泰山会」解散が暗示する中国市場「習近平一強」時代の変貌

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 2020年10月24日から2021年1月20日まで90日ほど公に姿を見せなかった巨大ネット・ビジネス「阿里巴巴(アリババ)集団」創業者の馬雲(ジャック・マー)。

 一般には昨秋の「時代錯誤の規則が中国の技術革新を窒息死に追い込む」との発言が、企業家としての彼の人生を失速させたと伝えられる。習近平政権は、この発言を自らの政策に対する「ノー」という意思表示と受け取ったからこそ、馬雲に対し断固たる処断を下したに違いない。

 それというのも馬雲の振る舞いは、建国100周年となる2049年に照準を合わせた習政権の超野心的世界戦略「中国製造2025」が目指す「製造強国」に、真正面から冷水を浴びせ掛けるような衝撃的内容を秘めていたと思えるからだ。

 馬雲に対する習平政権の厳しい対応は、馬の後ろ盾とされる王岐山国家副主席の共産党指導部内での影響力低下に連動しているとも伝えられる。だが、「習近平VS.王岐山」の権力争いが馬雲をめぐる一連の動き誘発したと考えるのは単純に過ぎる。

 やはり一連の事態の根底には、習近平一強体制による鄧小平式「社会主義市場経済」に対する大幅な見直しという狙いが、秘められているのではなかろうか。

「一帯一路」の先兵役

 ここ数年の馬雲は、中華圏で強い影響力を持つ華人企業家――タイのコングロマリット「CP(正大)集団」の謝国民(タニン・チョウラワノン)、マレーシアの実業家・郭鶴年(ロバート・クオック)――と手を組んで、東南アジアにおけるネット・ビジネスの展開に力を注いでいた。

 謝も郭も共に開放直後の中国市場に積極参入したことで共産党政権と太いパイプを築き、以後、中国市場での影響力を背景に経営規模を拡大させてきた。彼らが共産党のみならず習近平国家主席とも極めて近い関係にあることは、つとに知られている。

 こと謝に至っては自らが率いるCP集団を挙げて、タイと中国の両国政府連携によるタイ国内の高速鉄道建設――東南アジアにおける「一帯一路」の柱――に企業家人生の総決算を賭けるとまで公言しているほどだ。

 こう見てくると馬雲は、習近平政権が東南アジアで展開する「一帯一路」を民間側から補完する忠実な先兵役を果たしてもいたわけだ。

 にもかかわらず馬雲は昨年秋になって突如として長期にわたる動静不明の状態に置かれ、昨年11月には過去最高額となるはずだったアリババ傘下の「螞蟻(アント)集団」のIPO(新規公開株)取引の中止を余儀なくされた。

 当局はアリババに対し独禁法違反容疑で捜査に着手した。習国家主席は3月15日に中央財経委員会を主宰し、メディア業界に(1)正しい政治性、(2)公平な競争、(3)独占禁止、(4)資本の無秩序な拡大の防止――を強く求めると同時に、「金融活動の一切は金融当局の監督下に置く」と言明したのである。

 最近になって報じられる香港の『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』を軸とするアリババ傘下のメディア株売却の要求、さらには独禁法違反でアリババに課されると伝えられる高額な罰金――2015年の9.75億ドルを遥かに超えるとも言われる――を考えれば、習政権の“本気度”は疑いようがない。

彭徳懐の悲劇を彷彿とさせる

 昨秋以来、馬雲の周囲で起こった不可解な出来事を改めて振り返った時、頭に浮かんだのは毛沢東の怒りを買って国防部長の任を解かれた彭徳懐の悲劇だった。

 1958年、毛沢東は大躍進政策を掲げ「超英赶美」――世界第2位の経済大国・イギリスを追い抜き(「超英」)、超大国・アメリカに追いつけ(「赶美」)――の道に踏み出した。毛沢東の意に沿うように設定された高い目標を達成すべく、国民生活の全てが犠牲にされたのである。

 かくて農村は極度に疲弊し、最終的には2000万人とも言われる膨大な数の国民が餓死から免れることはできなかった。にもかかわらず、毛沢東の周囲から大躍進政策に対する正面切っての批判は聞かれなかった。

 1959年夏の共産党重要会議(廬山会議)に参加した彭徳懐は、自らが目にした農村の惨状に基づき、毛沢東に対し「国民は熱気に踊らされている。現実を直視すべし」との苦言(正論?)を呈した。

 それが毛沢東の逆鱗に触れてしまったのである。会議の席上、彭徳懐は毛沢東によって「右翼日和見主義反党集団首謀者」と激烈に糾弾され、辱めを受け、国防部長を解任されてしまった。この時の直言が、その以降の彭徳懐の悲惨な運命を決定づけたことは間違いないだろう。

 当時の共産党幹部なら、彭徳懐が軍事部門における毛沢東の子飼いの弟子であることは周知の事実だった。その彭徳懐ですら、盾を突けば容赦なく切り捨てる――。

 最高権力者による冷酷な仕打ちを見せつけられた後、共産党幹部の毛沢東への迎合姿勢が目立ち、それが結果として、大躍進政策によって破綻した国民経済の傷口をさらに広げたのである。

鄧小平式市場運営を支えた泰山会

 馬雲の失脚は“仲間”たちにも少なからず影響を与えたようだ。

 タイの華字紙『世界日報』によれば、馬雲が久しぶりに公に姿を見せた1月20日、中国の巨大IT企業経営者16人が集う「泰山会」が突如として解散に踏み切ったという。

 馬雲の報道を受け、彼の“落馬”を危険な予兆と見なした泰山会が自己防衛に転じたとも考えられる。あるいは老世代に属する会員のなかには、彭徳懐の悲劇を思い出す者もいたに違いない。

 解散時に明らかになった泰山会の顔ぶれをみると、「聯想(レノボ)集団」の柳伝志や「百度(バイドゥ)」の李彦宏など、誰もが掛け値なしに「中国の巨大IT企業経営者」である。

(1)仲間内の集まりでの発言は録音せず。

(2)記録は残さず。

(3)会員以外を招かず。

(4)対外宣伝せず。

(5)毎年1名以上の新規会員は募らず。

 との極めて簡単な規則に基づいて運営されていたというから、閉鎖性の強い秘密結社めいた印象を外部に与えてしまったようにも思える。

 同会の歴史を遡ると、中国のIT産業創業期をリードした「4人組」にたどり着く。中国の等子離体(プラズマ)研究の第一人者で、「中国のシリコンバレー」として発足した北京中関村の初期のリーダー、陳春先。「科海公司」創業者の陳慶振。「四通集団」董事長の段永基。「京海集団」董事長の王洪徳である。

 まさに泰山会とは、対外開放初期に最先端情報技術を中国に導入し、アカデミズムに基盤を置きつつも政治とアカデミズムとビジネスを融合させようとの構想を抱いた、野心的な起業家を核にして発足した集まりだった。

 その後、1980年代に入り開放体制が進展し、中国の最先端情報技術産業が拡大するや、「4人組」の周囲に、新たに勃興した「聯想」、「方正」、「紫光」などの関連企業の経営者が集う。

 1987年には政府主導による先端技術企業を糾合した北京民営科技実業家協会が結成され、やがて中国民営科技実業家協会に改められ全国組織化する。だが会員の急増は規模や技術面での企業間格差を招き、組織経営に齟齬をきたすようになる。

 そこで四通集団の段永基の提案に基づき、大規模企業経営者の交流と民営企業の存続と拡大を目的に、1994年夏に泰山産業研究会が発足する。その後、泰山産業研究院を経て、2005年から泰山会を名乗るようになった。

 発足当初の会員は15人で、会員数は限定されていたらしく、最多でも20人を超えてはいなかったようだ。

 このように概要を見ただけでも、泰山会が中国政府の先端技術産業政策に大いに寄与する一方で、その恩恵を十分に享受したと見て強ち間違いはないだろう。

 じつは泰山会は「勝ち組」であるIT長者の集まりらしく、欠席した場合、初回は1万元、2回目は20万元を罰金として徴収されたと伝えられる。

 泰山会が、山東省に在って天下随一の霊山として知られる泰山に因んで名づけられたことは容易に想像がつく。古来、泰山は天下の霊山として知られ、始皇帝が山頂に立って天下統一を天に告げる「封禅」を行って以来、いわば中国の象徴でもあり、中国の頂点を寓意している。であればこそ個々の会員は泰山会という名称に、それぞれの思いを込めていたはずだ。

政治と企業活動の相克・葛藤

 今回の唐突な解散宣言は、中国におけるITビジネス環境の変化――習近平政権主導による社会全体のAI化、「華為技術(ファーウェイ)」に象徴的に見られる米中対立に起因する世界展開へのマイナス作用、技術革新の前に立ちはだかる政治のカベ――に対する会員個々の考え方の相違が引き金になったようにも考えられる。 

 早くも2017年、発起人の段永基は退会の意向を示しているが、その背景には会員間の齟齬があったのではないか。とはいえ、会の運営を大きく左右した形跡は見当たらない。

 どうやら習近平一強体制が基盤を固めるに従って、泰山会に集うITビジネス・リーダーと政治との間に“すきま風”が吹き出したようにも思える。泰山会の活動が注目されるほどに、やはり習政権の目が気になりだすようになったのではなかったか。

 はたして先端情報技術は政治に従属すべきか。社会の現実に理性的・合理的に対処すべきか。企業価値の最大化を目指すべきか。それとも企業活動は《政治の矩》を超えてはならないのか――泰山会を取り巻く内外環境の変化は、現在の中国における政治と企業活動の相克・葛藤を象徴しているようにも思える。

“物分かり”がよくなった企業家

 今回の全国人民代表大会(全人代)と全国政治協商会議(全国政協)を前に、全人代代表でもある「聯想集団」董事長の楊元慶は、「老人向けのデジタル技術開発」を提言した。

 同じく全人代代表で最近公的資金が注入され財政基盤を強化した家電量販全国チェーン「蘇寧集団」の董事長である張近東は、「新型コロナ禍に苦しむ3000万農民工のために農村における家電販売ビジネスモデル」を提案し、「労働者を経営者に」と呼びかけた。

 また「百度」で董事長を務める李彦宏は全国政協委員としての立場から、「AI技術を高め自動運転化と教育の質的向上」を訴えた。

 3月12日、昨年11月に不許可となった「アント集団」のIPOを推進した胡暁明CEO(最高経営責任者)が、「今後は公益事業に従事する」ことを理由にしてCEOを辞任することを明らかにした。

 さらに、2000年代前半は中国最高の資産家とされながら、2008年に不正取引で逮捕・収監されていた家電量販の「国美集団」創業者の黄光裕が、すでに2月に正式に釈放されていたことが明らかとなった。“塀の外”に戻った彼は、「企業活動における愛国、愛党の意義を十分に理解した」ことを語ったと伝えられる。

 ここに示した楊元慶以下の企業家は、なぜ、政治に対し“物分かり”が良くなったのか。

 振り返るなら、1949年の建国から30年ほどに及んだ毛沢東政治は、貧乏の超大国――まるで「巨大な北朝鮮」――にたどり着いた。その後、鄧小平の剛腕が導いた「社会主義市場経済」によって世界の工場へ突き進んだ中国は、「社会主義」を忘れたかのように「市場経済」に「超」の一文字を被せて猛進し、毛沢東思想では到底築くことができなかったであろう経済大国へと大変貌を遂げた。

 馬雲、泰山会メンバー、ここに挙げた企業家にしても、鄧小平の「先富論」に導かれた弱肉強食に近い市場経済を勝ち抜き、現在の地位に就くことができたに違いない。彼らは鄧小平が強く求めた「ネズミを捕るネコ」だったのだ。

 だが習近平一強体制の基盤が強化されるに従って鄧小平式の「社会主義市場経済」は確実に変質し、いまや「市場経済」の要素は大きく後退しつつある。

 2020年末に起きた馬雲の失踪騒ぎ以降の企業家の動きは、敢えて「シーノミクス」とでも呼べそうな新しい形の習近平式「社会主義市場経済」――最高権力者の意向に従って動く市場経済システム――の到来を告げる“予鈴”とは考えられないだろうか。

樋泉克夫
愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

Foresight 2021年3月22日掲載

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