夫の遺体発見現場に「老舗酒店」を再建した女将が語る震災からの10年 #これから私は
「主人に手を伸ばしたのですが…」
10年前、店舗が全壊した宮城県気仙沼市の老舗酒店があった。「すがとよ酒店」3代目の菅原豊和さん(62)=当時=は津波に流され、行方不明となったが、妻や息子たちが老舗の意地を見せ、看板をおろすことはなかった。再建に向け女将が奮闘していたのだ。
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「先祖代々商売を継いできた。途絶えさせない」
震災直後の本誌(「週刊新潮」)の取材にそう答えていたのは、豊和さんの長男の豊樹さんだった。当時を豊和さんの妻・文子さん(71)が振り返る。
「あの時は感じたことのない揺れで、ただ事ではないと思いました。私と一緒に店舗兼自宅にいた主人は息子二人に車で行け、と先に避難させ、自分は近隣の様子を見に行ったのです」
だが、文子さんが外を見ると、黒い波がスーッと移動しているのが見えた。
「這うような波で5センチとかそのくらい。2階から1階に下りたら、主人がちょうど戻るところだったのです。でも、その時には主人の腿から腰のあたりにまで波が来ていました。“早く早く”と階段の手すりを掴んで主人に手を伸ばしたのですが……」
文子さんが豊和さんの手に触れた瞬間、後ろから波にさらわれてしまった。
「ものすごい大きな波で、主人が被っていた帽子が“パン!”と跳ねた。“お父さん!”と叫んだけど、もう姿は見えませんでした。慌てて2階に駆け上がり、戸を閉めたらバシャバシャと波が2階にまで押し寄せていました」
「気が狂いそうだったけど、あれ以上のことはない」
その後、文子さんは屋根によじ登り、避難した息子とともに生き延びたものの、自宅の2階にいた義父母は屋根に上がれず、犠牲になってしまった。
「主人が見つかったのは震災から1年3カ月後、2012年の6月のことでした。自宅兼店舗から100メートルほど離れた古いアパートを解体する時に見つかりました。お骨を抱いてわんわん泣こうと思ったけど、1、2分泣いたくらいですよ。それほど生きるのに必死でした」
まもなく、文子さんは気仙沼駅近くにコンビニをオープンした。
「その後、また別の場所に2軒目を作ろうと思っていたら、見つかった土地が奇遇にも主人が発見されたアパート跡だったんです。“絶対にここで酒屋を再建しよう”と思って、その土地と同じ区画に新たに『すがとよ酒店』を開いたのです。16年12月でした」
19年に店は創業100年を迎え、感謝セールを行ったりもした。しかし、経営は昨年来のコロナ禍で順風とはいえない。文子さんは決意を語る。
「震災当日の夕方、波がひいて屋根から2階に下りると、じいちゃんが冷たくなっていて、私の手で瞼を閉じました。ずっとサイレンが鳴っていて、夜になると町が燃えている火が見えた。まるで戦時中です。気が狂いそうだったけど、あれ以上のことはない。だから今もやるしかないと思えるんです」