住民を避難させ津波に呑まれた「消防団員」の兄が語る「まだ弟の気持ちが分からない」 #あれから私は
「俺はまだ弟の気持ちがわからないんだ」
停電で鳴らぬサイレン、押し寄せる津波。岩手県大槌町の消防団員だった越田冨士夫さん(57)=当時=は、住民避難のために最後まで半鐘を鳴らし続け、「殉職」した。地元で墓を守る兄が現在の胸中を語った。
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「半鐘を弟はどういう思いで鳴らしていたんだろうか。津波が襲い掛かった瞬間、後悔はなかったのか。俺はまだ弟の気持ちが分からないんだ」
そう語るのは、冨士夫さんの兄・越田聖一さん(69)である。20年以上の長きにわたり大槌町の消防団員を務めていた冨士夫さんは10年前の地震発生直後、消防団の屯所にいた。津波が近づく中、同僚は「消防車に乗れ」と叫んだが「行け」というジェスチャーを見せて、ひとり残った。他の団員らがその場を離れると、聞こえてきたのは、
「カン、カン、カン」
という半鐘の音。その音は屯所が津波に呑み込まれる寸前まで響き渡っていた。
「なんで逃げなかったんだ!」
聖一さんによれば、
「もともとうちは爺さんの代から船大工をやっていてね、弟は継がずに、酒蔵で働いたり、仕事は転々としていたんだ。昔から人の良い奴だったよ。千葉の造船所で働いていた俺が実家に帰ってくると鱒や鱈などこっちの魚を使った鍋を作ってくれた。二人で食べていても会話が盛り上がるわけではないんだけど、“ちょい消防団行ってくるわ”なんて言って、忙しそうにしていたのが印象的だった」
独身だった冨士夫さんはある日、聖一さんにこう漏らしたという。
「震災の2年くらい前かな、“万一の時は実家を頼む”ってね。両親も亡くなっていて、その時は何のことか分からなかったけど、今となってはね……。震災直後、弟が行方不明だったことは当時の毎日新聞の記事で知った。俺が大槌に入ったのは、震災から1カ月後だったんだけど、すでに見つかっていて遺体安置所にいたんだ。対面した瞬間は思わず、“なんで逃げなかったんだ!”と怒鳴ってしまったよ」
聖一さんはその後、地元の大槌町に暮らすようになる。実家には、冨士夫さんを称える岩手県や大槌町からの感謝状がずらりと並べられていた。
「こんなに賞状をもらっても本人がいないんだから。偉いことをしたんだろうけど、俺は弟に生きていてほしかった」
記者が聖一さんに冨士夫さんの墓を案内してもらうと、法名録には「東日本大震災にて殉職 命を救った半鐘」と刻まれていた。
その帰り道、聖一さんが車を運転しようとすると「(かさ上げで)町が随分変わったから道が分かんねえ」と言ってカーナビを見つめるばかり。10年を経ても、弟の死と生まれ育った地元の変わりように戸惑う兄の姿がそこにはあった。