ドキュメント3・11 イギリス大使館はなぜ「真実」を見抜けたか(下)

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火山爆発、伝染病、テロ対策、金融危機、そして気候変動――政治における「専門家」の役割が問われている。イギリス大使館の判断を支えたSAGEは、ブレア政権時代にその体制が整備された。新型コロナウイルス感染という新たな非常事態に臨む中で、いま浮上している課題と日本が生かすべき教訓とは。

 3・11から2カ月後の2011年5月末、英政府の首席科学顧問として緊急時科学助言グループ(SAGE)の委員長を務めたサー・ジョン・ベディントン教授が来日し、3・11の経緯を振り返るシンポジウムに出席した。

 講演に立った同氏はこう述べた。

「科学的助言の信頼性を保つには透明性と独立性が不可欠です。そのため3・11でSAGEは政府に助言を行うにとどまらず、SAGEの議論と結論をすみやかにインターネットを通じて公開し、また在日英国人のコミュニティーとオンラインで対話し、原発事故のリスクも含めて率直に明らかにしたのです」

 SAGEの透明性ある情報公開は在日の英国人など外国人だけでなく、日本人にも広く参照され、「東京は安全で避難は不必要」「窓を閉めて家の中にいれば神経質になることはない」との分析は大いに役立った。

 しかしベディントン教授は科学的知見と政府との関係、さらに科学的知見を絶対視することのリスクも含め、幾つか指摘することも忘れなかった。3点あった。

1.政府が決定を行う際には、科学的助言だけでなく、経済的、政治的、倫理的な要素も考慮され、科学的知見だけで決定されるわけではない

1.統一的な科学的助言を提供することが難しい場合もあることを理解すべきである

1.科学者の知見はあらゆる人々から批判も含め、さまざまな指摘を受ける余地を残した上で活用されるべきである

 同教授は最後に、

「この世の中で確かなことは『確実なものなど何もない』ということだけである」

 との警句を引いて講演を締めくくった。同教授には2014年、日英の科学技術交流推進に著しく貢献したとして、旭日中綬章が授与された。

日本に欠けている「法的根拠」

英国では政府内に首席科学顧問を置いて、科学的助言を受ける仕組みが第2次大戦直後にスタートした。これは各省のさまざまな分野に精通した科学顧問や外部の専門家の力を結集したSAGEに発展し、首席科学顧問が委員長を務める仕組みとなった。

 火山爆発、伝染病、テロ対策、金融危機、そして近年では気候変動など、科学的知見を必要とする数多くの政策課題が生まれる中で、ブレア政権時代の2001年に政府側の体制も整えられた。それまで非常事態の事務局は内務省が担っていたが、内閣府に市民非常事態部局(CCS=Civil Contingencies Secretariat)が常設された。

 ひとたび非常事態が起こると、CCSの下に省庁横断的な危機管理委員会(COBRA)が立ち上がる。2004年には非常事態法が制定され、錯綜する関連法体系を1つにまとめた。これによって非常事態にあってもSAGEと政府側の意思疎通がスムーズ、迅速になった。

 英政府の3・11での対応は、「平常時だけでなく、緊急時に際しても適切な科学的助言を迅速に得るための仕組み作り」を日本政府に痛感させた。翌2012年6月に出された「科学技術の振興に関する年次報告」にはそのことが教訓として盛られた。

 その点で、新型コロナウイルス問題は3・11の教訓をどう生かしたかが問われた最大の機会でもあった。この1年余の対応を中間総括すると、政府も科学者グループも手探りしながらやってきたというのが実態に近い。

 日本政府はクルーズ船での集団感染の対応に追われていた昨年2月、感染症や公衆衛生の専門家ら12人を集めて専門家会議を立ち上げた。英国のような緊急時科学助言グループ(SAGE)がなく、しかも新型コロナ対応の改正特別措置法が成立する前だったため、法的な根拠を欠いたままの出発だった。

 専門家会議メンバーの間ではこのままでは感染爆発的に拡大するとの危機感が強く、政府への提言にとどまらず、外に向かっても積極的に発言した。政府には感染状況の分析、検査体制拡充、「3密」の回避、在宅勤務――などの対策を求めつつ、市民には行動変容のお願いを呼びかけるなど、従来のパターン化された諮問・答申の関係を超えた役割を担った。

 一例が昨年4月の緊急事態宣言の時だった。専門家会議にオブザーバーとして出席した京都大学の西浦博教授は、人と人との接触を8割削減する必要性を主張した。しかし政府はこの目標は国民に受け入れられないと、「最低7割、極力8割」と目標を弱めて国民に提示。西浦氏はツイッターで「7割は政治側が勝手に言っていること」と投稿した。リスクを国民に説明する「リスクコミュニケーション」でも、政府でなく専門家会議が前面に出ることも少なくなかった。

 専門家会議が前のめりになった理由について、座長を務めた国立感染症研究所の脇田隆字所長は、

「政府の諮問に答えるだけでなく、対策も必要があると考えた」

 と語っているが、法的根拠を欠いて権限や責任が明確でない分、自由に動けたという側面もあった。ただこれによって専門家会議への期待を必要以上に抱かせた一方、「専門家会議がすべてを決めている」とのイメージを強めた。

 本来、専門家会議の役割は科学的知見に基づきさまざまな選択肢を示し、併せてそれぞれの効果と問題点を提示することで、政府はそれを踏まえて対策を決め、理由を説明し、結果責任を負う。この役割分担があいまいで、時に逆転した印象を与えた。

 透明性という点でも不十分だった。専門家会議では議事録概要にとどめ、議事録は作成されていなかったことが判明したが、メンバーから「発言を探られたくない」との声が出て、本人の希望で発言を削除できる仕組みにされたことが分かった。

 政府は6月下旬、専門家会議を解消し、特措法に基づく新たな会議体「新型コロナ分科会」(略称)を設置。感染防止と社会経済活動の両立を図るため、発足時のメンバー18人には感染症の専門家のほか、経済学者や知事、情報発信の専門家らが加わった。これには政府が主導権を取り戻す狙いもあったともみられた。

 しかし感染が拡大して医療崩壊の危機が叫ばれる中で、経済の専門家の声は小さくなっていかざるを得なかった。昨年末の観光支援事業「Go To トラベル」の扱いはその象徴で、感染症の専門家が主導権を握った分科会と政府の間で溝が生じ、最終的に政府は一時停止に追い込まれた。

「政策の正当性」「結果責任」を誰に求めるか                                                                                

 では英国はどうだったかというと、被害の大きさもあって日本以上に対応は混乱した。今年3月初め時点で、英国は感染者421万人、死者も12万4000人に上っている。

 感染が広がり始めた昨年3月、欧州各国が厳しい外出制限を設ける中、英国は国民にレストランなどに集まらないよう呼び掛けるにとどめた。フランスのエマニュエル・マクロン大統領が電話でボリス・ジョンソン英首相に「感染拡大の抑制策を強化しなければ、英国からのフランス入国を禁止する措置を取ると」と述べたのを受け、やっと3月23日から厳格な外出制限に踏み切った。その後、ジョンソン首相も感染し、一時は集中治療室に入る重篤な状態に陥ったが、それまで首相が問題の深刻さを過小評価していたのは間違いない。

 英政府はSAGEの構成員や議事録を非公開にしていたが、世論の批判を受けて5月に公開した。これによるとSAGEの助言をそれなりに取り入れて政策が決定されたことがうかがえるが、この時点で約4万人の死者が出ていたこともあって、政府内には逆にSAGEの責任を問う声も上がった。

 ジョンソン首相は昨年7月、『BBC』のインタビューで、

「最初の数週間や数カ月間、ウイルスを十分に理解していなかった」「(初期対応で)違うやり方ができたかもしれない」

 と反省の弁を口にした。

 ただ「政策決定権はあくまで政府にある」とする同首相は、SAGEの提言は提言として、独自に判断を下そうという姿勢は基本的に変わらなかった。これに不満を抱くSAGEメンバーが「首相は科学的知見を無視している」とメディアに舞台裏を明かし、メディアが政府を叩くという混乱も度々起きた。

 一例がクリスマス休暇の対応だった。英政府は11月下旬、3世帯まで一緒に過ごせるように規制を緩和すると発表したが、SAGEはその数日後に、

「気分が高揚するクリスマスに規制を緩和すると、感染者は急増する」

 という内容の提言を公表した。実際、そのようになり、英政府は再び感染抑止策を強化しなければならなかった。また今年1月初めから英国は3度目のロックダウンに踏み切ることになったが、同首相は、

「私の考えでは学校は安全で、教育は最優先課題だ」

 と、学校閉鎖を伴わなければロックダウンの効果が薄れるとのSAGEの提言を入れなかった。しかしロックダウンに踏み切る直前、家庭でのリモート教育に転換した。

 日英の政府と科学助言グループの関係を比べると、日本は政府が自らの政策決定の正当性と根拠を専門家会議、分科会に求めようとする傾向が強いのに対して、英国は政府としての独自性を打ち出そうとする姿勢が目立つ。その分、「結果責任は政府が負う」という自負が強い。

 英国では昨年12月初旬にワクチン接種が始まり、人口比では主要国の中で最も進んでいる。遅くとも今年9月に全成人の接種が終わる見通しだ。もっとも変異ウイルスが急拡大しており、ワクチン効果が続くのかなど不透明さはまだまだ残る。10年前に来日したベディントン教授は「この世の中で確かなことは『確実なものなど何もない』ということだ」と述べたが、ウイルスとの戦いはこの言葉を胸に、シニシズム(冷笑)やニヒリズム(虚無)に陥ることなく「解」を模索していかねばならない。

                                    (了)

西川恵
毎日新聞客員編集委員。日本交通文化協会常任理事。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。著書に『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)、『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『ワインと外交』(新潮新書)、『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。

Foresight 2021年3月10日掲載

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