【福島第1原発事故から10年】飯舘村:「地域喪失」からの開墾(上)
原発事故は人の関係を壊し、ばらばらにする災害だ――。「復興」の旗印のもと帰還した村は、かつての地味が失われ砂漠のような土地だった。住民の多くが農業を諦めるなかで、土と「共同体」回復の試みが続く。
この冬、氷点下15度を記録した福島県飯舘村比曽。阿武隈山地深くの道は2月上旬の新雪に埋もれていた。つるつるに凍ったわだちも刻まれ、車の速度を30キロ以下に落として恐る恐る峠を越える。標高約600メートルの小盆地は真っ白に眠りつき、しかし、かつて水田風景があった集落の真ん中には、緑の覆いに包まれた除染土袋の仮置き場が山脈のように横たわり、2011年3月の東京電力福島第1原発事故から10年を経ても変わらぬ現実を見せる。
菅野義人さん(68)は仮置き場を見渡せる農地にしゃがみ、雪の下から土の塊をひっくり返して見せた。そこには無数の枯れた根が張り、しっかりと土くれをつかまえている。昨年、緑肥とする牧草をまいて育て、トラクターで土にすき込んで深くかくはんした。
原発事故で全住民が避難した約6000人の村は、20ある行政区の大半が除染作業の後、政府から避難指示を解除された。比曽地区は、唯一の帰還困難区域である長泥地区に隣接し、村内でも高い放射線量が残る地域となり、除染後の農地引き渡しが18年9月と、他地区より1年半以上も遅れた。原発事故前に10アールから11俵(660キロ)を収穫した義人さんの水田2.1ヘクタールも除染土袋の山の下にある。
〈「17年3月で帰れと言われて生業をどうしろというのか。除染を終えて仮々置き場を撤去し、それから避難指示を解除するのが筋道ではないか」。政府は「復興」を早く宣言しようと、その筋道を切り離したのかと菅野さんは問う。〉(15年8月20日の『河北新報』連載「飯舘村比曽から問う」㊦より)
筆者が記した義人さんの言葉だ。「復興」どころではなかった。引き渡された農地は、何世代も耕され豊かだった地味が失われた上に、山砂が大量にかさ上げされた。「砂漠にされて返され、どうしろというのか」と、持ち主の農家たちが途方にくれたのは言うまでもない。環境省はカリウムなど基本肥料、放射性物質の吸収抑制効果のあるゼオライトを投入する「地力回復」の追加工事を村中で行い、さらに1年を費やした。
義人さんを取材した昨年1月30日の拙稿『原発事故10年目の「福島県飯舘村」:篤農家が苦闘する「土の復興」はいま』で、「石との闘い」を報告した。自宅の裏山の斜面を切り開いた約2ヘクタールの採草地では、除染作業で重機に踏み固められた土を、まずトラクターで破砕し、深耕し、反転させ、除去すべき石ごと掘り起こす。大きなもので直径50センチ前後から、1メートルを超えるものまで無数に露出した。
石との格闘をやり遂げ
環境省の担当者から「こちらの仕事は放射性物質の除去で、営農再開ではない」と言い
放たれ、独力での撤去を決意。酷寒の昨年2月から、持ち上げられる石は手で集めてダンプカーに運び出してもらい、大きな石は自ら小型のショベルカーやブルドーザーを運転して掘り起こし、砕いていった。「手に負えない石は、後々にプラウ(耕起機械)を壊さないように、2メートルくらい地面を掘って埋めた。数メートル進むのがやっとの難所も多く、深さ50センチくらいの石のない層を少しずつ広げていった。家に戻る暇も惜しく毎日弁当持参で続け、約2ヘクタール分の撤去をやり終えたのが5月中旬だった」。
菅野家の先祖は1607(慶長12)年に比曽に移住した武士だったと伝わり、江戸時代は旧相馬藩の下で代々「肝入」(名主)を務めた。飯舘村は当時、放牧地とされた高冷の原野。そこに鍬を振るった先祖は自宅にある社に祀られ、義人さんはいつも手を合わせ、思いを馳せてきた。
「比曽の始まりは開拓だった。大きな石は懸命に割って小さくし、木の根っこを起こし、途方もない時間が掛かったに違いない。私が動かした一番大きな石は、長さ2メートル、幅50センチ、厚さ40センチあった。浅い所にあったので、機械で脇を掘り、少しずつ引っ張って、土手に押し上げた。丸一日仕事だった。それでも、いまは機械の助けがある。やる気さえあれば、暑さ寒さを我慢すれば、何とかなる」
冒頭の根っこが絡んだ土くれは、「土づくり」の最初の成果だった。かつては繁殖牛の牛舎から出る稲藁の堆肥を、土に還す営みが村の農家にあったが、その自然な循環を原発事故が断ち切った。菅野さんは、農地引き渡しを受けた後、 pH(酸性、アルカリ性の強弱)や保肥力、窒素、カルシウム、リンなどの土質分析をあちこちの場所で行い、壊された土壌の回復策を考案した。
19年春から、石と格闘した場所以外の計6ヘクタールで石灰散布とともに、ヒマワリなどをまいて夏にすき込み、その後に燕麦や牧草をまいて晩秋から初冬にまたすき込んだ。昨年が、その挑戦の2年目に当たり、「年々、土が軟らかくなってくる」と初めて笑みを浮かべた。「だが、それを4年、5年と続けていって初めて、農業を取り戻す土台の『土の復興』になるんだ」
帰還14戸、農業再開は6戸
比曽の長い歴史の上で原発事故は、1780年代の天明の飢饉に続く2度目の苦難だと義人さんは考えている。天明の飢饉では、餓死・病死・逃散で藩内人口が3分の1に減り、そのころ91戸あった旧比曽村(長泥地区などを含む)で残ったのが3戸だったという。
〈「天明4(1784)年の春には、多くの餓死者に加え、疫病が流行し、病死、中毒死もあり、死者の数は増えるばかりであった」
「耐える意思なき者は、老父母を置き去りにして逃げ行き、或いは、我が子を淵川池堤に投げ入れ、富家の門前に置き去りにする者あり」
「凶作により人の心まで落ちて、浸種や苗代に蒔いた種まですくい取り、強盗、追いはぎ等数々の罪人多く、火あぶり、はりつけ、打ち首等の仕置きあるも止まらず」〉(義人さんが所蔵する、当時の比曽村の惨状を記した『天荒録』の一節/現代語訳)
悲惨極まる飢饉の後の古里で再び、開拓を担った人々に菅野家の先祖もいた。
〈それが復興の原点。先人の労苦を思えば、乗り越えられない困難はない。原発事故もまた歴史の試練と思い、帰還以外の選択肢は自分になかった〉(『河北新報』前出記事)
義人さんのそんな言葉を、前述の拙稿で紹介した。
「昔は、この土地で生きようとした人たちがあらゆる工夫をし、大きな石を掘り出して割り、太い木の根っこを起こし、開墾地を広げた。厳しい開拓は助け合わなければできず、比曽の田や畑になり、農家同士の共同作業になって受け継がれた。だが、助け合った仲間は帰ってこない」
原発事故前の比曽行政区には85戸、約280人が暮らした。義人さんによると、現在までに帰還したのは14戸にとどまり、避難先の新しい住まいと二重居住をする世帯もある。若者の世代はおらず、65歳以上の高齢化率は75%という。生業だった農業を再開したのは6戸だけで、花の栽培を始めたのが3戸、今春から稲作をするのが1戸、そして、「復興」とは何かを模索して土づくりに取り組む義人さんがいる。それぞれがいまだ「点」の存在だ。この未来図のない地域で、義人さんは昨春から行政区長の任を負う。
地域を壊したもの
原発事故の後、初めて比曽の男衆ら60人が地元に集い、「人足仕事」と呼ばれる共同作業を行ったのは15年8月初めの日曜朝。お盆を前に、避難中に荒れ放題だった共同墓地の雑草の刈り取りをした。背負い草刈り機を操ってわずか30分ほどで片付ける無言のチームワークに、取材した筆者は長年培われた共同体の底力を感じた。
比曽行政区は住民の避難後も、役員と区長経験者を加えた「除染協議会」、婦人会もメンバーの「復興委員会」を設け、課題を毎月話し合っていた。墓地の除草もその1つで、当時の区長は、勤め先がある隣町の避難先から駆け付けて、こうあいさつした。
「参加者はもっと少ないかなと思っていた。でも、都合が悪くて出られない親の代わりに息子さんが来た家もあって、うれしかった。この機会を待っていたんだ。地区集会所の除染が去年終わり、集まりができる環境ができた。墓地の敷地の堆積物を除去する作業もようやく終わったのをきっかけに、共同作業を復活させようと考えた。比曽のコミュニティー再生の始まりにしたいと願って」
春は田植え前の用水路の手入れ、夏は川や道路、墓地の草刈り、秋は神社の祭り、冬は除雪。四季を通した共同作業の伝統は、しかし、復活することがなかった。
決定的な出来事があったのは13年秋、除染を担当する環境省福島環境再生事務所から比曽行政区に寄せられた、「水田27ヘクタールを、除染で出る廃土の仮置き場の用地として賃借したい」という要請だった。それは、1980年から5年間の土地改良事業で、比曽の小盆地の真ん中に生まれた美田60ヘクタールの約半分を占める。「それでは復興の妨げになるではないか」と環境省側に問うと、「それは、うちの管轄でない。仮置き場を山林に造成すれば費用も時間もかかる。早急に除染を進めたい」と回答された。併せて行政区に提示されたのが『水田10アール当たり18万円』の借地料だ。
「金に寄りかかったら一歩を踏み出せないし、自助、自立の復興にならない。お金で土地を売り、原発を造らせたのと一緒だ」。行政区の会合でこう反対を訴えたのは、義人さんら一握り。「除染しても、ここで作るコメに買い手がつくかどうか。金を得た方がいい」との意見が多数で、一緒に地域づくりをしてきた仲間からは「金のある人はいい。俺は1円でも欲しい」と、むき出しの感情をぶつけられた。「原発事故は人の関係を壊し、ばらばらにする災害だ」と義人さんがその後、何度も振り返る瞬間だった。
(続く)