「なにもできない父親でした」 原発事故後「自殺した酪農家」の今も消えない壁の遺言
一人の映画監督が「取材規制」していいのか
2日前にバネッサさんは特段、私に変な感情を持っているようには見えなかったから、最後の言葉は監督が勝手に後付けしただけだろう。「俺の映画制作と訴訟の邪魔をするな!」ということだ。
厄介だったのは、バネッサさんも監督に全幅の信頼を寄せていたことだ。生活面での支援を監督から受けているようで、ことある毎に「監督は優しい!」と言う彼女に対し、私は下手に動くことができなくなった。迂闊に彼女に接触するとすべて筒抜けになってしまうからだ。
だがしかし、一人の映画監督の手によって取材を妨害される理由などない。実はこの「取材規制」は私だけでなく、他の報道関係者にも同様に行き届いていたことがその後の取材で明らかになった。バネッサさんへの取材を許可する代わりに、金銭を要求されたという話まで聞いた。その執拗なまでの監督の独占欲に、私はあきれ返って何も言えなかったが、2人の間に「信頼関係」がある以上、再び静観するしかなかった。
ひょっとしたらもう二度と取材はできないかもしれない。そう落胆しつつも、裁判の成り行きぐらいは把握しておきたかった。そうして1年が経ち、2年が経ったが、裁判の経過は新聞や雑誌などで報じられることはなく、時間が止まったかのように無音状態が続いていた。その空白期間を埋めるために、再び福島県を訪れたのが冒頭のくだりである。まだ監督との信頼関係が続いていれば、こちらの動きが分かってしまう。私の胸の内は、不安一色に染まっていた。
2年後のフィリピン再訪問で
最後に訪れてから2年も経過しているため、バネッサさんがまだそこに住んでいるのかどうかも分からない。関係者に聞いてみたところ、住所に変更はなかったが、彼女は新たに男の子を産んだようだった。相手は日本で出会ったフィリピン人男性。私は内心、フィリピン人らしいなと、彼女の奔放さに口元が緩んだ。
曇り空の午後、近くのスーパーで手土産に粉ミルクを買い、その平屋住宅に向かった。縁側の半開きになったドアの隙間から「こんにちは」と何度か声を掛けると、間もなくTシャツに短パン姿のバネッサさんが現れた。何しろ2年ぶりである。私の顔を見たバネッサさんは、特に驚いた様子もなく、あっけらかんとして少しだけ笑顔になった。
「バネちゃん、僕のこと覚えている?」
「覚えているよ!」
そして「今から子どものチェックアップ(健康診断)に行くから、一緒に行かない?」と誘われ、なぜか私も近くのクリニックに同行するはめになった。子どもはまだ生まれて10カ月のため、定期健診が必要とのことだった。
健康診断、昼食、スーパーでの買い物とほぼ一日中彼女に付き合うことになったが、結論から言うと、バネッサさんと四ノ宮監督は決裂していたことが分かった。
その火種はやはり金であった。
バネッサさんに昨年、災害弔慰金などが支給されたが、そのうちの一部を四ノ宮監督に要求されたのだという。
お金に群がる人々
夕食の準備のため、台所で野菜の炒め物をしながらバネッサさんが私に言った。
「確かに最初、私は監督を信頼していた。金銭面も含めて支援をしてくれると言ったからよ。子どもにおもちゃを買ってくれたし、お金も貸してくれた。でも相馬市からお金が支給されてから、手のひらを返したように要求されたの」
福島県内のフィリピン人たちに親族、そして今度は監督からも……。
後日、私は四ノ宮監督に電話取材をかけた。バネッサさんとの金銭トラブルについて尋ねると彼はこう答えた。
「東電から損害賠償金が支払われたらその一部を僕がもらう約束になっている。災害弔慰金については、バネッサに貸した金額プラスアルファをくれなかったからムッとした。その後も彼女から金を貸してくれと言われ、嘘もつかれたから腹が立った」
取材規制に関しては、その責任をバネッサさんに転嫁しながらこう説明した。
「お金がもらえなければ彼女は取材を受けないと言っていた。だから僕も取材をするんだったら本人にお金を渡して下さいとメディアに言った覚えはある。それに映画撮影の邪魔もされたくなかった」
監督はそれよりも、バネッサさんがフィリピン人男性との間に子どもを儲けたことに痛く失望しているようだった。
「男なんか作らずに子どものために自分を犠牲にしてまでも生きていくんだっていうのが僕の理想の人間像だった。でもその理想とかけ離れてしまったから、映画の中でバネッサをどう扱っていけばいいのか分かんなくなった。彼女に魅力もなくなった。それが喧嘩の原因」
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