「なにもできない父親でした」 原発事故後「自殺した酪農家」の今も消えない壁の遺言

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親族間で「遺産争い」が勃発

 バネッサさんと初めて会ってからしばらく経った頃のことだ。彼女の親戚というフィリピン人男性から私の携帯電話に着信が入った。彼とはすでに面識があったため、電話を取ると、

「バネッサが俺に金を渡そうとしない。お前もグルだろう。バネッサとお前には違法薬物所持容疑で逮捕状が出ている。俺の知り合いに、国家捜査局(NBI)の捜査員がいるんだ。覚悟しろよ」

 そう言って男性は電話を切った。

 バネッサさんに入った保険金をめぐり、親族間で「遺産争い」のようなことが繰り広げられているようだ。この男性はその後、バネッサさんに私の評判を落とすようなことを言ったらしく、バネッサさんからは私に不信の目が向けられるようになった。

 つまりは私もこの騒動に巻き込まれた形となったが、一方で貧困家庭に育ったフィリピン人にはあり得る話だと思った。

 フィリピンは「出稼ぎ大国」と言われ、人口の1割に相当する約1千万人がアジアや中東諸国に出稼ぎに行き、本国の家族に送金するのが義務的慣習になっている。その送金額は国内総生産(GDP)の1割近くを占めるというから、海外からの送金がフィリピン経済を下支えしていると言っても過言ではない。このような背景を踏まえると、大金が入ったバネッサさんの送金に期待する親族との間に何らかのトラブルが生じても不思議ではない。いずれにしても私は、ほとぼりが冷めるまで静観することにした。

「夜の仕事以外ないのか…」

 そうして再び福島県に向かったのは最初の取材から約1年半後の2013年5月。東電を相手取って損害賠償を求める裁判を起こすため、バネッサさんと弁護士らによる記者会見がメディアで報じられた3カ月後のことだった。その模様は悲劇のヒロインを絵に描いたように映っていたが、県内の在日フィリピン人社会からは同情されるどころか、逆にバネッサさんに対するあらぬ噂が立てられ、悪評が出回っていたのだ。菅野さんの親族が指摘していた通り、金の貸し借りを巡って起きた何らかのトラブルがその原因とみられる。

 バネッサさんはその頃、元の自宅から車で約1時間離れた場所にある平屋住宅に子ども2人と住んでいた。訪ねてみると、以前のような警戒心は薄れているように感じられた。

 生命保険金から菅野さんが残した借金を返済したため、生活が苦しくなったのか、夜はフィリピンクラブで働く日々。露出度の高いドレスを着た彼女は、カウンター席で私の隣に座り、セリーヌ・ディオンの歌を熱唱していた。その姿を横目に、生活に困ったフィリピン人が日本で生きていくにはやはり、夜の仕事以外にないのかという疑問が何度も頭をもたげた。

突如かかってきた一本の電話

 この2日後、再び一件の電話が入る。相手はいきなりため口で、高圧的な話し方をする中年男性の声。その男性は、バネッサさんらを題材に「わすれない ふくしま」という映画を制作した四ノ宮浩監督(57)だった。彼のことはもちろん知っていたし、損害賠償訴訟の記者会見の席上、バネッサさんの隣に座って威圧的な態度を取っている姿もネットで見ていた。バネッサさん宅を訪れた2日後の電話だったから、相手が四ノ宮監督だと分かった時点で話の内容は察しが付いた。

「あなたバネッサの住所は誰から聞いたの? 絶対に他の人に教えちゃ駄目だからな」「バネッサの取材をするんだったら、俺を通すってことになってるんだよ!」「一度会おうよ。悪いようにはしないからさ」

 ほぼ一方的に話す監督のぶしつけな口振りに、戸惑いと怒りがない交ぜになったような感情がわき上がってきた。こちらの不愉快な気分を無視するかのように、監督は最後にこう言って電話を切った。

「バネッサが取材はやめてくれって」

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