日本人初の冬季五輪メダリスト「猪谷千春」が語る「オリンピックの本来の姿」
1956年1~2月、イタリアのコルチナ・ダンペッツォで冬季五輪が開催され、猪谷(いがや)千春氏(89)は「アルペン男子回転」で銀メダルを獲得、日本人として最初の冬季五輪メダリストに輝いた。それまで、欧州以外の選手が五輪のアルペン種目でメダルを獲ったことはなかったのである。
(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)
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本誌創刊号(56年2月19日号)には、その猪谷氏の偉業についての記事が掲載されている。「コルチナの日章旗」というタイトルで、当時24歳だった彼が、10代前半の少年時代から桁外れのスピードを持っていたことが記されている。
「創刊号で取り上げられていたことは知りませんでしたが、五輪から日本に戻った時、当時はバラックのようで小さかった羽田空港に、メディアの方々が100人くらい集まっていて驚いたのを覚えています。志賀高原にあった実家へ帰ったら、町をあげて提灯行列で歓迎してくれました。大変なことをしたんだと、帰国して初めて思ったものです」
とは、ご本人。当時の冬季五輪は、参加選手が800人程度という規模で、彼らはスポーツをしに来たツーリストのようにリゾートホテルに泊まり、身辺警備もなく自由に外出ができたという。
「昔のオリンピックには、スポーツ大会としての本来の姿がありました。選手が開催都市の中を自由に闊歩し、現地の人々と交流して違う国の文化を感じ取る、まさに平和の祭典でした。今のように選手が“檻”の中に閉じ込められることはなかったのです」
猪谷氏の活躍は国際的にも話題になった。56年といえば敗戦からわずか11年、まだ日本は海外の多くの国と国交を結べていない状態だった。
「日本なんて“椰子の木が生えてバナナが穫れるんじゃないか”と思われていたような時代です。そこに、彼らと遜色のない技術を持った私みたいな存在が突然現れたわけだから、“どこでその技術を習得したのか”と驚かれたわけです」
なぜ欧州の選手に引けを取らなかったのか、その理由は創刊号に次のように記されていた。
〈千島で生れ、季節が春だったから、“千春”と命名された彼は、生れる前からスキーヤーとしての運命を予定されていた。
お父さんの六合雄(くにお)氏は雪を求めて二十年余も放浪を続けた人、『雪に生きる』の著者。お母さんも元女流ジャンパー。
千春君をつれての夏の唐沢や乗鞍の練習は、将来にそなえて欧州の硬い雪になれるため。理論的な技術指導や規則正しい生活、千春君をきたえる六合雄氏のムチはきびしかった〉
今も欧米のファンから
より正確にいえば、猪谷氏が身につけたアルペンスキーの技術は、親子で独自に開発したものだった。それまで日本で主流だったオーストリアのスキー技術と比べ、身体の向きや構えの高さ、体重のかけ方などが違っていた。いわば、従来の教えとは正反対の技術だったのだ。
「コーチ役を務めていた親父が偉かったのは、私が突拍子もないことを始めても、『これは面白い、もう少し続けてやってみろ』と試させたことです。私は親父との練習の中で、当時のヨーロッパの最強の選手たちと同じ最先端の技術を自然と身につけていったのです」
五輪に先立つ53年には、アメリカのダートマス大学に入学、スキー部のキャプテンを務めるなど、国際経験も積んでいた。
「敗戦国から来た日本人ですから、決して好かれる人種ではなかったと思いますが、スキーという特殊技術を持っていたせいか、差別を受けたことは一切ありません。朝、洗面所で鏡を見て、自分は日本人だと感じるくらいで、残りの時間は“ブロンドで青い目をしている”といった気持ちで過ごしていました」
現在も猪谷氏のもとには、年に10通ほど欧米のファンから“サインがほしい”と、昔の写真が送られてくるという。ひとりの東洋人が世界に与えた衝撃は65年経っても色褪せていないわけだが、2005年から4年間、IOC(国際オリンピック委員会)副会長も務めたその眼には、現在の五輪選手はどう映っているのだろうか。
「いまは、あらゆる競技で選手の実力が伯仲し、厳しい戦いの世界になっています。その中でライバルと同じことをしていたら決して追い越すことはできません。コーチの指示に従うだけではなく、自分の頭を使って、新しい技術や戦い方を切り開いていかないといけない。私の経験は65年前のものですが、本質は同じだと思っています。物心両面で恵まれた環境にあるからこそ、自分で考えて努力することを忘れないでほしいのです」
長引くコロナ禍で、東京五輪の開催決定は、いまだなされていない状況だが、
「開催を前提に、万難を排して努めていくしかありません。可否を決める日まで、全力を尽くすだけでしょう」
先駆者の熱いエールである。