「具志堅用高」が明かす日本人初の世界王者の素顔 「アドバイスを守って戦ってきた」
今でこそ日本人のボクシング世界王者は珍しくないが、1950年代は、まだ世界との実力が大きくかけ離れていた時代だった。そんな中、初の日本人王者に輝いたのは、フライ級の白井義男である。のちにジムを共同経営した元ジュニアフライ級(当時)世界王者の「カンムリワシ」具志堅用高さん(65)が、偉大なパイオニアとの思い出を語った。
(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)
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東京生まれの白井は、戦時中にプロデビューし、8戦全勝の成績を残したまま海軍に召集される。復員後は、GHQ職員だった生物学者のカーン博士に指導を仰ぎ、52年5月、世界王者だったダド・マリノ(米国)に判定勝ち。初の日本人チャンピオンとなった。
その後は4度の防衛にも成功。具志堅さんが言う。
「白井先生の現役時代は私の生まれる前ですが、王座を獲ったマリノ戦はVTRで観ました。当時の日本人ボクサーは、とにかく打たれてもがむしゃらに前に出て打ち合うファイター型ばかりでしたが、先生はコーチのカーンさんの指導で、日本では珍しいアウトボクシングを武器にしました。長身でリーチも長く、左右のフットワークを駆使してパンチをよけ、ジャブと右ストレートを放つ。“打たせないで打つ”を守り、世界を獲ったのです」
第7ラウンドには相手の左フックを受けて脳震盪を起こし、ゴングに救われてコーナーへ戻ったのだが、
「セコンドについていたカーンさんが『Wake up!』と背中を叩き、それで文字通り目覚めたと先生は言っていました。試合前には『戦争で負けて日本人は落ち込んでいる。お前の相手は王者でアメリカ人だ。勝って日本を元気づけろ』と、アメリカ人のカーンさんから励まされ、勇気をもって臨めたとのことでした」
が、54年11月、挑戦者のパスカル・ペレス(アルゼンチン)に判定で敗れ、王座から陥落。半年後の55年5月にはリターンマッチに挑んだものの、5回KO負けし、これをもって当時31歳の白井は現役を引退した。後楽園球場の特設リングに1万5千人の観衆を集めた「最終試合」の中継は、日本のテレビ史上最高となる視聴率96・1%を記録。もちろん現在も破られていない。
試合を報じる当時の新聞には、
〈フライ、ヘビー両級の前世界チャンピオンはタイトルを奪回し得ないというジンクスを破ることは出来なかった。しかも白井は惨敗を喫した。(中略)半年をブランクに過したため試合のスピード感、タフネス、パンチ、フットワークなどあらゆる点に精彩を欠き再度ペレスに降った〉(55年5月31日付「朝日新聞」朝刊)
とある。具志堅さんによれば、
「試合中にバッティングをされたらしく、先生は帰宅しても勝ったのか負けたのか分からなかったそうです。ただ『ウエイトに失敗した』とは言っていました。今は試合の前日に行いますが、当時は朝、計量して夜に試合でした。何でも、ペレスに“スパーリングをやって耳が痛い”“計量後に夕立が降った”といった考えられないような理由で、何度も日程を延ばされたと聞きました」
銀座でも紳士だった
具志堅さんが生まれたのは、その試合の翌月。初めて言葉を交わしたのは、74年のプロデビュー直後だったという。
「たぶん、デビュー戦の試合直後に『頑張れよ』と声を掛けて下さったのだと思います。というのも上京して間もない頃で、沖縄では試合中継なんて観られなかったから、先生の顔を知りませんでした。その後、私が76年にチャンピオンになる前に先生が控室にきて『ストレートをもっと伸ばせ、まっすぐ出せ』とアドバイスして下さり、その教えを守って戦ってきました」
13度の世界王座防衛を果たした具志堅さんは81年に引退。その後も、白井とは公私にわたる付き合いを続けてきた。
「先生は人の悪口を絶対に言わない紳士でした。解説の仕事でも何度かご一緒したけれど、私が試合中に選手を『これじゃ世界は獲れません』なんて批判しても、先生は必ず『この部分がよかったですね』と、長所を見つけるのです。“ほめて伸ばす”人格者です」
95年には「白井・具志堅スポーツジム」を設立。
「先生は『日本のボクシング関係者は信用できない』と言っていた。いろいろな金銭トラブルを見てきたのでしょうが、私は一緒にやるなら先生しかいないと思っていたからお願いしたのです。おそらく『ヨーコーちゃんならいいか』と思って受けて下さったのでしょう」
ボクシングを離れても、あくまで“紳士”だったというのだ。
「よく一緒に銀座に飲みに行きましたが、カーンさんの影響でしょうか、先生はウイスキーやブランデーばかりで焼酎は飲みませんでした。ボクシングジムの会長なんかが集まると話題は下ネタばかりなのですが、先生は静かにニコニコしているだけ。バシッとスーツを着こなし、胸元にはハンカチーフ。だから店の女の子は、みんな先生の横に座りたがりましたね。でも先生は『ママが怖いから』って……。“ママ”とは奥様のことですが、そういうところも素敵でした」
白井は2003年暮れ、肺炎で世を去った。日本人が初めて王座を獲った日を記念し、5月19日は「ボクシングの日」に制定されている。