「ロシア革命」で日本に亡命、「太平洋戦争」で迫害され… 300勝投手「スタルヒン」の数奇な人生

スポーツ 野球

  • ブックマーク

 本誌(「週刊新潮」)が創刊される前年の1955年9月、日本プロ野球で初めて300勝を達成した投手がヴィクトル・スタルヒンである。だが栄光の陰には、白系ロシア人として日本に亡命、生涯国籍のないまま、偏見と迫害に苦しみながら白球を投げ続けた数奇な人生があった。

(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)

 ***

 その存在は“遠い昔の大投手”では決してない。彼が巨人在籍中に記録した「開幕投手からの11連勝」は昨年、菅野智之投手が塗り替えるまで、実に82年間破られなかった球団記録でもあったのだ。

 スタルヒンの長女で、都内在住のナターシャさん(69)が回想する。

「私が5歳の時に亡くなったのですが、とても大きくて優しかったことは覚えています。声を荒らげたこともないし、怒られたこともありません。300勝を達成した時は自宅に記者さんが詰めかけ、写真撮影をしたのですが、私が覚えているのは父に“野球のボールを取ってきてほしい”と頼まれたこと。2階の父の部屋からいくつかボールを抱えて降りてくると、父は私を膝の上に座らせ、そのボールを指の間に挟んでみせました。300勝ですから3個のボール。そのくらい大きな手だったのです」

 ナターシャさんは後年、父の歩んだ人生を詳細にたどり、86年に『ロシアから来たエース』(PHP研究所)を上梓。それは、文字通り波瀾に富んだものだった。

 スタルヒンは1916年、ウラル山脈東部にある小さな農村で生まれた。父親はロマノフ王朝の将校で“貴族的”な暮らしを送っていたが、17年にロシア革命が勃発。社会主義政権が樹立すると、一家は革命軍に追われ、ウラルから広大なシベリアを横断し、満洲のハルビンへと逃げのびた。日本に亡命して北海道・旭川にたどり着いたのは1925年、彼が9歳の時だった。

 生活は苦しく、小学校から帰ると母が焼いたロシアパンを売り歩くのが少年の日課だったが、やがて野球に熱中し始める。旭川中(現・旭川東高)時代、長身から投げ下ろす豪速球が評判となり、ベーブ・ルースらが全米オールスターチームとして来日した1934年の第2回日米野球戦には、全日本の一員として出場。その年、発足したばかりの大日本東京野球倶楽部(現・巨人)に入団した。プロ4年目に記録したシーズン42勝は、今もプロ野球タイ記録として残っている。

 選手生活は順風満帆であったが、戦争の足音が近づくと状況は一変した。

「父はロシア人の血を持つゆえに敵性外国人と見なされ、特高警察から目をつけられるようになりました。横文字を避け、登録名も“須田博”に変更させられ、試合では戦闘帽を被り、産業戦士としてチームメイトと一緒に工場でも働いたのですが、再三の申請にもかかわらず日本国籍は取れなかった。そして戦局が悪化すると、外国人だからという理由で球界から追放され、軽井沢で事実上の幽閉生活を送ることになったのです」

「他力本願」と謙遜

 日本の教育を受け、日本人と同じ言葉を話して野球で活躍しても、日本人にはなれなかった。亡命したためロシアのパスポートも持てず、所持していたのは国際連盟が発行した無国籍難民のためのナンセン・パスポートだけ――。

 終戦後は一時、進駐軍の通訳も務めたが、新人の頃から父親のように慕っていた藤本定義・巨人軍初代監督に誘われ、46年球界に復帰。トンボ・ユニオンズで前人未到の300勝を達成した時、スタルヒン本人は、

〈全く他力本願だ。皆さんのお陰で勝てたんだ〉(「朝日新聞」55年9月5日朝刊)

 そう謙遜しきりだったが、当日の対戦相手・大映の監督を務めていた藤本は、次のように讃えている。

〈彼を一口でいうと温室育ちでないということだ。(略)精神的ハンディキャップを乗り越えてきたからこそ今日の偉業に到達できたのであろう」〉(同)

 が、偉業達成のシーズンオフにユニフォームを脱いだ彼を、不慮の事故が襲う。57年1月、40歳の若さでの死。旭川中の同窓会に車で向かう途中、停車中の路面電車に激突するという惨事で、原因はなお謎のままである。

「最も辛かったのは、やはり無国籍のまま一生を終えたことだったと思います。父の人生を調べるために100人以上から話を聞きましたが、誰もが“どんな時でも笑顔を絶やさず、いつも皆を笑わせていた”と言う。辛い時でも笑顔でいたのは、生き抜くための知恵だったのかもしれません。それは父から私への教え、教訓なのだと思っています」

 2016年、その生誕100周年を記念したセ・パ交流戦が、旭川の「スタルヒン球場」で開催された。始球式を務めたナターシャさんはあらためて、

「帰る場所のない父にとって、9歳の時から育った旭川は唯一の故郷、心のよりどころでした」

 そう語るのだった。

週刊新潮 2021年2月18日号掲載

特別記念ワイド「65年目の証言者」第2弾 より

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。