森喜朗「密室伝説」 就職も首相就任もエンブレム問題も「みんな密室だった」
白紙の答案の最後に
辞任して川淵三郎氏に会長の座を譲ろうとしたことが、新たな批判を浴びることとなった森喜朗・東京五輪組織委員会会長。「なぜ後継者を指名できるのか。密室で決めるな」――。そんな批判をご本人はどれだけ受け止め、理解できているだろうか。というのも「密室」と森氏はもともと「密」な関係にあるからだ。人生の節目節目で、密室感漂う、別の言い方をすれば不透明感あふれるエピソードが飛び出すのである。
速報「娘はフェイク情報を信じて拒食症で死んだ」「同級生が違法薬物にハマり行方不明に」 豪「SNS禁止法」の深刻過ぎる背景
速報「ウンチでも食ってろ!と写真を添付し…」 兵庫県知事選、斎藤元彦氏の対抗馬らが受けた暴言、いやがらせの数々
今回の“無念の辞任”の機を捉えて、森氏の過去の「密室伝説」を振り返ってみよう。
まず「就職編」。
森氏は早大卒業後、産経新聞に就職しようと考える。
コネで当時の社長を紹介してもらい、推薦を約束してもらったものの、採用通知が来なかった。実はその年、同社は新人採用を控えていたからである。それなら採用も何もあるはずがない。
しかし、これに激怒した森氏は会社に直談判。その後の経緯は本人がこう語っている(2015.07.22 読売新聞朝刊)
「その後入社試験をやるという連絡がありました。私は『試験は受けない。受ければ成績が悪いことを理由に断られる』と言い張りましたが、『受けないと採用しない』と言われ、仕方なく受けました。白紙の答案の最後に『天下の水野社長(注・当時の社長)は約束した青年の夢をこわしてはならない』と書き加えました。
まもなく採用通知があり、産経新聞にめでたく入社することになりました」
このエピソードは本人お気に入りのようで、著書などでも披露しているのだが、普通に考えると無茶苦茶な「ズル」であり、公正な競争などとはかけ離れたルートで就職したとしか言えない。
もちろん、当時、コネ入社などは珍しくもないのだけれども、それを堂々と語るセンスは珍しい。
当時、同じように同社への就職を希望していた若者からすれば、これほど不透明な話もあるまい。
「次は森さんで」
次は「首相就任」編。
政治家に転身してからもっとも有名な「密室」にかかわるエピソードは、首相就任の際のこんなプロセスに関係している。
2000年4月2日未明、小渕恵三首相(当時)が病気で倒れてこん睡状態になる。
同日の夜に、ホテルに集まった自民党幹部らが話し合い、「次は森さんで」と決めた。
当時の森氏は幹事長。これで実質的に後継首相が決まってしまったのである。
そもそも小渕首相の入院や病状にまつわる情報もごく一部の者のみが知る状況で、密談によって「次への流れ」が決まったのだから、およそ民主主義国家とは言えぬプロセスだった。
当然、このプロセスは当時、各方面から批判を浴びることとなる。国会でも「不透明な密室劇」と野党の追及を受けている。
このあと「密室」「不透明」といった批判は森内閣につきまとうこととなった。
当時の報道では、組閣も一部で情報を独占して決めた、として「密室だ」と内輪の反発を招いていた。
また、退陣の際も「密室」で決まったと伝えられている。
多くの人は忘れているだろうが、東京五輪の開催決定後も、森氏は「密室」批判を受けたことがある。
エンブレム問題だ。当初決まっていたエンブレムの選考過程が、盗作疑惑をきっかけに問題視されたのだ。
「2020年東京五輪のエンブレムが白紙撤回された問題で、大会組織委員会は28日、選考過程のわかりにくさ、密室性といった旧エンブレム選考の反省点をまとめ、理事会で報告した。森喜朗会長は記者会見で『エンブレムを撤回したことで2020年に大きな期待をしている国民の皆さまにご心配をおかけし、おわびします』と陳謝した」(2015.09.29 朝日新聞朝刊)
[1/2ページ]