伝説の横綱「大鵬」三女が明かす父の素顔 元夫「貴闘力」の借金1億円の保証人に

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「巨人・大鵬・卵焼き」と称された昭和の大横綱は、本誌(「週刊新潮」)が創刊された年と同じ1956年の9月に初土俵を踏んでいた。45連勝や幕内優勝32回といった輝かしい記録を打ち立てた角界の大立者は、一方で土俵を離れれば厳しくも優しい父だったという。その背中を見て育った三女の納谷美絵子さん(46)が回想する。

(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)

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「私たち納谷家は、父以外は母と娘3人。女ばかりの家族でもあり、父は土俵の上でのことは決して口にしませんでした。“仕事は家庭に持ち込まない”ということだったのかもしれません」

 自宅で取材に応じ、そう切り出した美絵子さん。この日はちょうど1月19日、2013年に世を去った父の命日であった。大鵬が引退したのは71年で、美絵子さんが生まれた頃は、自ら創設した大鵬部屋の親方として弟子の指導にあたっていた。

「父は、“今度こそ男の子を”と期待していたようです。それがまた女の子だったから、がっかりしたみたいで、病院にも来なかったと聞きました」

 とのことで、

「相撲の話はしなくても、幼い頃は特に、家でも空気がピンと張りつめていた感じでした。食事の時など、箸の持ち方が悪いと叱られ、正座を崩してもパチンと頭を叩かれました。中学高校の頃は門限が18時で、あらかじめ理由を伝えていればよかったのですが、時々、どうしても時間が守れないことがありますよね。そんな時でも言い訳は許されず、パシッと叩かれました。もちろん軽くですが、これが結構痛いのです」

 厳しく躾けた父は、

「私が“大鵬の娘だから”と特別視されることを嫌っていました。大相撲も桝席で見たことなどありません。部屋の旅行でハワイに行った時も、父と母はビジネスクラスで、私たち子どもはエコノミー。当時は“ずるいな”なんて思いましたが、それは“分不相応な振る舞いはするな”という無言の教えだったのだと思います」

 むろん、厳しいばかりではなかったといい、

「私は末娘だったから、よくオセロゲームで遊んでくれたり、可愛がってもらいました。ところがオセロでも、父は真剣勝負で決して手を抜かない。勝負事だから娘相手でも負けてくれないのです……。そう思うと、全然優しくありませんね」

 苦笑いする美絵子さんには、こんな思い出もある。

「小学校1年生の頃、犬に追いかけられて転んだことがありました。顔の左半分に大きな擦り傷を負って、出血もひどかったのですが、父に『何してるんだ、どんくさい奴だな』なんて叱られたくなかったから、顔を手で覆って帰宅したのです。でも、大きな怪我だからすぐにわかる。すると父は『最後まで手をつかなかったのは偉いぞ。さすが俺の子だ』と、おかしなほめ方をしてくれたのでした」

私を案じてくれて

 美絵子さんは93年10月、元関脇の貴闘力と結婚。当時19歳で、新郎は7歳年上だった。

「高校生の頃から大相撲にのめり込んだ私は、本場所の衛星放送を録画して部屋の力士に届けたりしていました。その頃は若貴ブームのはしりでしたが、私が夢中になったのは貴闘力さん。勢いよく土俵に上がって相手にぶつかっていく、その姿を好きになったのです」

 部屋の力士に頼んで間を取り持ってもらい、ほどなく交際がスタート。貴闘力は後々ギャンブルで角界を追われることになるのだが、

「彼のギャンブル好きは最初からわかっていました。何しろ、最初のデートが大井競馬場でしたから。もちろん高校生だった私は馬券を買いませんでしたが、彼は私そっちのけでレースに夢中でした。でも、父は結婚に大喜びで『気が強い娘、トラだぞ。熨斗(のし)つけてくれてやる』なんて彼に言っていました。ただギャンブル癖のことは心配していて、彼に『賭博は身を滅ぼすぞ』と注意もしていました」

 それでも美絵子さんが結婚を決めたのは、

「私はお酒を飲む人が嫌いでした。父は大酒飲みで、酔って深夜や明け方に、時にはホステスさんを引き連れて帰宅する。それでも母は料理を作って寝ずに待っていました。そんな姿を見て、2人の姉も“お相撲さんとの結婚は嫌だ”と、角界とは無縁の人と一緒になりました。でも貴闘力さんはお酒が飲めない。お酒よりギャンブルの方がましだと思って……。考えが若かったのです」

 納谷家に婿入りした貴闘力は、大鵬部屋の跡取りとなり、04年には大嶽部屋を興す。が、10年6月に発覚した野球賭博問題では自身の関与も判明し、日本相撲協会を解雇されるに至る。

「その年の7月に私たちは離婚しました。これは二人で話し合ったことで、父が彼に“別れてくれ”と申し入れたわけではありません。彼が解雇された頃、父はずっと家にいて、離れて暮らしていた私は父に申し訳ないという気持ちしかありませんでした」

 ところが、

「そのさなか、父から『心配しているよ、顔を見せに来い』と電話があったのです。叱るのではなく、か細い声で私を案じてくれました。私は当時、4人の息子を育てるためにアルバイトで生計を立てていました。でも、そんな暮らしは父に打ち明けられなかった。父は周りから頼られると何でも受け入れてしまう人だったからです」

 貴闘力は近年“結婚時には借金が1億円あり、大鵬親方が保証人となって銀行から借りて5年で返済した”と明かしているのだが、

「細かいやりとりは、男同士の話であったのかもしれませんが、私にはわかりません。ただ、父は困った人には力を貸すのを惜しまなかった。だから貴闘力さんの借金も、何度も面倒をみてくれたのでしょう。そして、私がそんな苦しい時を乗り越えられたのも、先ほど話した“無言の教え”があったからだと思います」

 仏壇の前で、美絵子さんはそう吐露するのだった。

週刊新潮 2021年2月11日号掲載

特別記念ワイド「65年目の証言者」より

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