「延暦寺」大火事から65年 原因は今なお不明、万全の出火対策とは
世界遺産の首里城跡に建つ正殿が焼け落ちたのは一昨年の秋だった。由緒ある建造物が灰燼に帰す悲劇は、もちろん過去にも繰り返されており、本誌(「週刊新潮」)が創刊された年には、やはり後々世界遺産に登録される比叡山延暦寺が大火に見舞われている。以下は、長い歴史の中でたえず「火」と向き合ってきた名刹の物語である。
(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)
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延暦寺では1956年10月11日の未明に出火、重要文化財に指定されている大講堂と鐘台が全焼した。
本誌の56年12月3日号に掲載された記事では、
〈損害額は、ざっと、10億円(注・現在の60億~70億円に相当)を下るまいといわれている〉
〈漏電でないことだけは判ったが、失火とも放火ともキメ手は一切つかぬまま1カ月が過ぎた〉
などとあるのだが、この記事には、
〈名刹延暦寺の放火少年〉
との見出しがつけられていた。実は捜査の過程で、里坊の寺の元住職の息子で山上事務所の受付係だった19歳の少年が浮上。火災の翌月には賽銭を盗んだ容疑で検挙され、ほどなく放火も自供したという。本誌は少年の実名を掲載しつつ、その動機として当日、無断で山を下りて上司に叱責されたことなどを挙げている。
記事ではさらに、
〈自供の裏付けとなる物的証拠は跡形もなく焼失している〉
としながらも、
〈さる25年7月2日、京都金閣寺に放火炎上させた犯人林養賢と多くの類似点が発見されている〉
そう指摘していた。が、起訴された少年にはその後、窃盗罪について大津地裁で懲役1年執行猶予3年の判決が下され、放火については無罪が言い渡されている。
当の延暦寺に、あらためて65年前の一夜について聞くと、
「当日、火災には未明の3時ごろに気付いたと聞いています。山頂に人はいたものの、すでに近寄れる状態ではありませんでした」
とは、小鴨覚俊(こがもかくしゅん)・総務部長である。
「消防車が到着したのは数時間後で、すでに鎮火する頃だったようです。当時は山頂まで通じるドライブウェイはなく、急勾配の林道を使ってようやく1台が上がってきました。ケーブルカーはすでにあったので、夜中に緊急で動かして麓から消防団員や住職らが乗り込み、みんなで鎮火作業にあたったと聞いています」
損害額については、
「5億円とも10億円とも言われたようですが、そもそも大講堂も鐘台も、根本中堂(こんぽんちゅうどう)(本堂)と同じ江戸の寛永年間に建てられたもので、算定のしようがありません。いまと違い、当時はおそらく建物に保険はかけていなかったのだと思います」
出火原因は、今なお謎のままだという。
「分灯」で絶やさずに
小鴨総務部長が続けて、
「働いていた身内を庇うわけではありませんが、放火から漏電まで、警察が徹底的に調べた上、裁判で結論が出たのですから、これ以上、犯人探しや原因を追究しても仕方がない。以来、“法灯”を受け継ぐ者として、灯を絶やさぬようにする務めについて、あらためて基本に立ち返ろうという意識に切り替わったのだと思います」
その“法灯”とは、788年に最澄が寺を創建して以来、1200年余りにわたって根本中堂内陣で燃え続けていると伝わる灯火のことである。
「幸い、根本中堂は無事でしたので法灯は影響を受けませんでした。これまで、歴史の中で比叡山は何度も焼かれたり火災に遭ったりして法灯は消えていますが、その都度、別の場所に分灯していた火を貰って、絶やさずに灯してきました。織田信長による焼き討ち(1571年)でも、本堂の法灯は消えてしまいましたが、山形の立石寺(りっしゃくじ)に分灯されていた火を戻しています。分灯の目的は“バックアップ”ではありませんが、結果的にはその役割を果たしているとも言えます」(同)
灯明にはガスや電気を用いず、灯心が立てられた小皿に油を注いで燃やす。むろん、日頃から油の交換や皿の掃除など、手入れには余念がないという。
「法灯を灯している灯籠は根本中堂に三つあり、お手入れは一つずつしていきます。その時には一時的に灯を消すことになり、作業が終わったら、点いている二つのうち、どちらかから灯を戻す。これを繰り返していくのです」
現在、延暦寺の敷地には消防車が常駐。非常時に直ちに消火にあたるためだという。ドライブウェイは58年に完成し、同年には消火栓を全山に設置したのだが、
「今でも麓から消防車が駆け付けると30分はかかるので、払い下げて貰った古い消防車を使っています。現場で災害に直接対応できる人材は不可欠なので、防犯・防災について専門の訓練を受け、消防車を扱える警備職員が9名勤務しております。また、90年からは全山に放水銃を設置するなど、設備を増強しています」
謎の出火から65年、北嶺は鉄壁の守りを敷いているのだ。