大河「青天を衝け」の「渋沢栄一」は類い稀なる“乗り鉄” 米国視察の仰天エピソード

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乗り鉄も舌を巻くほどの行動力

 晩年になっても、渋沢は積極的に鉄道を利用した。1909年、渋沢を団長とする実業団がアメリカを訪問。シアトルに上陸した実業団一行は、そこから主要都市を巡歴しながら東へと進む。そして、ニューヨーク・ボストン・ワシントンから西へと引き返してサンフランシスコから帰路につく。

 アメリカ視察は約3か月の滞在だった。行程の大半は列車による移動だったことは言うまでもないが、60を過ぎた渋沢はほかの実業家も真似できないほどの精神力で列車を乗り回している。

 特に渋沢の強靭なバイタリティを示すエピソードとして特筆すべき出来事が、ワシントン滞在中にあった。

 渋沢が日米親善のために粉骨砕身していたことは、ニューヨーク市の政財界関係者も熟知していた。ニューヨーク市の関係者は「せっかくアメリカに来ているのだから、渋沢を午餐会に招待したい」と、渋沢が宿泊していたホテルへと訪ねてきた。しかし、渋沢は前夜と午餐会当日の夜に予定が入っていた。

 ワシントンとニューヨークは汽車で片道5時間の距離にある。老体には厳しい汽車旅になることは間違いなかった。しかも、季節は11月で厳しい冬に突入していた。体力的に、かなり厳しい。

 午餐会のためだけに、ワシントンとニューヨークを日帰り往復させるわけにはいかない。渋沢の多忙なスケジュールを知り、ニューヨーク市の関係者たちは「無理を言ってすまなかった」と諦める。

 ところが、渋沢は「ワシントンでの用事を済ませた後に、夜汽車に乗れば昼にはニューヨークに着く。そして、午餐会を終えた後に汽車に飛び乗れば、夜の用事に間に合う」として、午餐会の出席を快諾する。

 これには、渋沢の秘書も午餐会へ招待を打診したニューヨーク市の関係者も驚いたが、渋沢は約束通りに強行日程をこなした。それは、乗り鉄も舌を巻くほどの行動力だった。

 2月14日から始まる「青天を衝け」で、渋沢が多くの鉄道会社を興したことに触れることはあって、鉄道ファンも舌を巻くほどの“乗り鉄”だったことを紹介することはないだろう。

 資本主義の父・渋沢の知られざる横顔を知れば、大河ドラマを違った見方で楽しめるかも知れない。

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮取材班編集

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