「山口淑子」実妹が語る「イサム・ノグチ」との離婚騒動 離婚時に交わした“契約”とは
芸能人のゴシップが世間の耳目を集めるのは、今も昔も同じである。それゆえ「読者が求めて週刊誌が書く」のサイクルが数十年にわたって稼働しているわけだが、歴史を遡ると、本誌(「週刊新潮」)が創刊された当時、世を賑わしていたのは「李香蘭」こと山口淑子さんと前衛芸術家イサム・ノグチ氏との“離婚問題”であった。
(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)
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満洲映画協会(満映)にスカウトされ、1938年、日本人であることを隠しながら中国人女優「李香蘭」として女優人生をスタートした山口さん。7年前に94歳で幕を閉じたその生涯は、まさしく激動の昭和とともにあったといえる。
終戦を迎え、46年に引き揚げ船で帰国した彼女は、本名の「山口淑子」として女優活動を開始。日米の映画に出演しながら51年に日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ氏と結婚した。が、55年には離婚、本誌が創刊された翌年2月にはその事実が公となっていた。
ちなみに創刊号の本誌(56年2月19日号)には、山口さんが「シャリー山口」の名で登場。当時、確執を抱えていた父親と絶縁した経緯が掲載されている。その翌週号では、イサム氏との離婚問題が取り上げられ、
〈5年間の結婚生活のうち、二人がほんとうに夫婦らしく暮らしたのは、鎌倉の新婚生活を含めて、僅かに半年(中略)夫婦らしく一緒に住むことはほとんどなく、殊に最近2カ年の間は二日と一緒にいたことはなかった〉
そう記されている。この号では山口さん自身も、
〈女優でも人間です。個人の私生活はあるのです。こんどの離婚についてもあまり触れられたくありません。こうしたトラブルは何かの形で演技に影響するものです〉
などと心境を吐露しているのだが、さらに同年3月18日号の本誌では、
〈イサム・ノグチ氏の未練?〉
と題し、こんな“後日談”も掲載されている。
〈すでに終止符が打たれたと思われた山口淑子とイサム・ノグチの離婚問題が、またむしかえされそうである。(中略)3月2日17時30分の日航機で、イサム氏が突如前ぶれもなく来日するという。一説には、山口をアメリカへ連れ帰るためだとも言われている〉
この動きに山口さんは、
〈「私の決心は変らない。到着時間を知らせる電報を受けとっただけだから、何も言うことはありません」〉
と、静観の構えを見せていたのだが……。
「私、忙しいのよ」
山口さんの12歳年下の妹である山崎誠子さんが、当時を回想する。
「イサムさんと姉の結婚式は、四谷にあった和式の大きな会場で執り行われました。梅原龍三郎先生のご夫妻が仲人をして下さり、イサムさんの親代わりは洋画家の猪熊弦一郎先生ご夫妻がつとめられました。黒澤明さんや三船敏郎さんもおいでになったのです」
二人が同居していたのは短期間だったが、
「イサムさんが北大路魯山人さんと親しかったこともあり、そのご厚意で、鎌倉にある畑に囲まれた魯山人さんの家に住まわせてもらっていました。私が泊まりがけで遊びに行った時など、朝起きたらすでにイサムさんは作業衣を着て、仕事場で石を削っていました」(同)
山口さんの自伝『李香蘭 私の半生』(新潮社刊)では、
〈時間的なすれちがいが性格のすれちがいにつながってしまった〉
との回想がなされており、さらには、
〈おたがいの仕事を尊重し邪魔しないこと、仕事に支障をきたした場合は、友人として円満に別れること〉
そんな“契約条件”が、結婚当初から存在していたことが明かされている。
「私たち家族は中国から戻ってきたこともあり、特に姉は米国の国務省に目をつけられていました。イサムさんの住む米国のビザがなかなか下りず、自由な行き来ができなかった。結婚する時も離婚でも、書類の提出がスムーズにいかなかったと聞いています」(同)
山口さんは離婚の翌年には2番目の夫となる8歳下の外交官・大鷹弘氏と出会っている。
「姉と別れた後もイサムさんは何度か日本に来られて、私が暮らしていた実家に『イサムです。ヨシコさんはお元気ですか』と、電話を掛けてきたこともありました。電話に出た私が『いま日本にいらっしゃるのですか』と尋ねると『そうです。来ました。ヨシコさんに会いたい』なんて言っていましたね」
いかなる用事で来日したのかは不明だったというのだが、本誌が65年前に書いた「イサム氏がアメリカへ連れ帰る」との見方も、あながち外れてはいなかったようだ。ただし、
「イサムさんはとても純粋な方だったので、姉に未練があるというよりは、せっかく日本に来たので会っておこうと思ったのではないでしょうか。でも、それを姉に伝えても、一言『私、忙しいのよ』と。姉が58年に再婚した後にも電話があったのですが『私には大鷹がいるから』と、取り合おうとしませんでした」
山口さんが心不全で旅立ったのは2014年の9月7日。山崎さんがあらためて言う。
「その前日も私は姉の家で看病して『明日また来るから』と、いったん帰ったのですが、翌朝6時くらいにヘルパーさんから『様子がおかしい。すぐ来て下さい』と電話があり、駆け付けたらもう……。よく“激動の人生”と言われますが、多くの方に愛されて、姉は幸せだったと思います」
ノグチ氏は88年の暮れに死去。先の自伝はその前年に刊行されているのだが、
〈私たちは“契約条件”のとおり、いまでも友情をあたためている〉
山口さんは、そう綴っていた。