綾瀬はるかと高橋一生が入れ替わるドラマのような「入れ替わりの元祖」を追え!
ラスボスの存在
東京郊外、隣同士の家に同じ日に引っ越ししてきた2つの家族。河井家の一人息子・陽一(小林文彦)はガリ勉男子。立花家の一人娘・百合(安東結子)はおてんば娘。
ふたりは、ゴミのように捨てられていたタヌキのぬいぐるみを拾う。
口元に貼られていたテープをはがすと、中から赤い玉と青い玉が。ひとつずつ持ち帰ったが、その夜ふたりは、タヌキがしゃべる夢を見る。
「あの玉はポンポコ玉。ポンポコ玉を持って、おまじないを唱えれば男女入れ替わることができる。ただし、10分間のみ」というのだ。
早速、陽一と百合はお互いのピンチやトラブル勃発時に、入れ替わって難を逃れる。
ガリ勉とおてんばという正反対の性質が入れ替わる妙はあるが、意図的に自由に入れ替わることができるため、勧善懲悪というか、あくまで子供向けのドタバタコメディという印象。
性別が入れ替わる戸惑いや憂い、恥ずかしさやうしろめたさはないが、単純に面白かった。ちょいと魅力についても触れておこう。
なんといっても、男女入れ替えの秘密を探ろうとする隣のおばさん・鵜之目タカ子(塩沢とき)がめちゃくちゃ面白い。
近所の噂好きというレベルを超え、盗撮に盗聴は日常茶飯事。陽一と百合を執拗に追いかける狂気の隣人だ。
「アータ! アータ!」と夫を呼んでこき使い、英単語まじりでまくしたてる独特な口調。
一度観たら忘れられなくなる。実は、劇中でタカ子も入れ替わりを体験する。
陽一と百合がポンポコ玉を持たせて、意図的に入れ替えを謀るのだ。
塩沢ときはコメディの才能を存分に発揮。ある意味、このドラマにおける最大の敵というか、ヒールというか、ラスボスだった。
そして、当時人気を博したコメディアンや喜劇役者がわんさかゲスト出演する点も興味深い。
今でもTBSがよくやる、歌舞伎役者やプロレスラー、アスリートをゲストに呼ぶ手法はこの頃からだったのかと思うと感慨深い。
客寄せパンダという阿漕(あこぎ)に見える手法も、敬意を払うべき伝統の域なのね。
「大人の幼稚化」
さてさて。「入れ替わり」元祖にたどり着いたものの、気づいたことが。
現実ではありえない「入れ替わり」は、そもそもファンタジーで子供向けだった。
「あべこべ物語」は幼い子供たちに、「転校生」は思春期の子供に、性差を知って相手を思いやるという「配慮」の育成を促した。
そんなファンタジーがいつからか大人の娯楽となってしまったのだ。
要は「大人の幼稚化」である。
タイムスリップにしろ、入れ替わりにしろ、現実逃避としか思えない事象。
それがドラマで乱発される背景のひとつは、明らかに「大人の劣化」。
非科学的な事象に胸躍らせるのは子供の仕事と思う人もいるはず。
私も心のどこかでファンタジーにアレルギーがある。必ずツッコミを入れる自分がいる。
が、ファンタジー作品が増えた背景はわかる気もする。
何も起きない穏やかな日常を描いても話題にならないし、かといって理不尽な暴力や殺戮、性的なシーンを描くと確実に視聴者から怒られる。
少なくともファンタジーはこうしたイチャモンから逃れることができる。
「これは架空の設定、フィクションですから」の文言がどれだけテレビ局の人のストレスを減らしていることか。
さらに擁護するならば、40~50代の作り手の「敬意と挑戦」ととらえることもできる。
男女入れ替わりが描かれ始めた頃に子供あるいは思春期だった人々は、名作に触れた感動体験がある。
そして、それを超えるモノを作りたいという欲求もあるはず。
入れ替わる人物が男女だけでなく、敵対する相手や別世界の人間だったら?
不思議なおまじないや階段落ちではなく、落雷や衝突事故、歯科治療など物理的な刺激だったら?
さらには入れ替わる人物がどんどん移っていったら?
そこは作り手のセンスと腕の見せどころである。
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