スランプだった「ひふみん」を救った「伝説の師匠」の意外な言葉とは
令和の時代もブームに沸くが、本誌(「週刊新潮」)が創刊された1956年は今以上に棋士の活躍が人々の関心事だった。特にこの年は、升田幸三実力制第四代名人が、“天才棋士”と称される大山康晴十五世名人を破って世間が騒然となった。終生ライバルだったニ人だが、升田を心の師と仰ぐ「ひふみん」こと加藤一二三九段が、伝説の名人との秘話を披露してくれた。
(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)
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各界の人間模様を綴った本誌創刊号は、将棋の世界にも斬り込んでいた。昭和を代表するトップ棋士がまさかの5連敗。その大異変を本誌は以下のように伝えた。
〈大山名人の顔には、むしろあきらめという言葉がピッタリするような表情が浮かんでいた。33歳、冷静水のごとしと形容され、ここ数年幾多のタイトルをかけた大勝負ごとに、不敗の信念に紅潮した彼のほおはいまや土けいろだ〉
〈1月20日、赤坂「比良野」で行われた第5期王将戦第4局、すでに3番ストレート負けで王将位を失うばかりか升田幸三新王将に香落ちと指し込まれた大山康晴名人が、いままさに駒を投げようとした瞬間であった〉
王将位を争う中で3勝差をつけて番勝負を制した棋士が香車を一つ失う「香落ち」で次局を指す、「三番手直り」という規則があった。いわゆるハンデ状態だったのだ。タイトル戦で名人相手に香車抜きで挑んだのは升田ただ一人で、勝利したのも彼だけ。そんな棋士を、本誌は記事中でチクリとこう評してもいる。
〈升田八段が、その豪放な攻めと、常に新風をひらく研究をもって将棋界の雄であることはたしかである。しかし、彼の最高調時はすぎていると一般に考えられていた〉
つまりは下馬評の低かった挑戦者が、見事名人を圧倒したわけだ。
“それでいい”
「王将戦を盛り上げるために設けられていた『香落ち』という異例の規則は55年ほど前に見直され、現在そのようなルールはありません」
と話すのは、棋界の生き字引である加藤一二三九段だ。
「升田・大山というのは生涯の好敵手で150局以上戦っています。確かに、王将戦で調子を崩した大山先生は『香落ち』で負けていますけどね。コレをきっかけに決意を固め、その後の両者の対決はトータルで大山先生が勝っています」
翌年、勢いにのる升田は名人戦第16期で、激闘の末、再び大山を制して“将棋界初の三冠王”の称号を手にする。だが、それもつかの間、以降は大山が次々とタイトルを奪回して黄金期を築くのだ。タイトル戦での二人の生涯対戦成績は15勝5敗と大山の圧勝である。
改めて加藤九段が言う。
「僕は大山先生と120局強、升田先生とは50局くらい戦いましたけどね。大山さんは『受け』の名人でバランスが取れていた。中期から晩年にかけて升田さんに勝てていたのは、そこに理由があった。一方で升田先生は先攻逃げ切り型。序盤の作戦が非常に上手い。先にリードを保つ、その姿に僕は憧れた。升田先生が編み出した序盤の新手は五つくらいあって、今でも十分通用する。独創性は傑出していて、私の目標でした」
“新手一生”を旨とする升田の姿が、「ひふみん」の目には焼き付いている。
「東京・鷺宮にある升田先生のご自宅にお邪魔して、一緒に盤を挟んで思案した。研究して新手を編み出す時間の長さは相当なモノでしたね。今はパソコンなどで棋譜の検索もできますが、昔は情報が限られていましたからね。あくまでも先生が作戦を考えるのに立ち会うだけで、何かを教えて貰う場ではありませんでした」
とはいえ、生きる指針を与えられたとして、加藤九段はこう振り返る。
「私は69年に『十段』というタイトルを奪われて以降、成績もふるわなかった。そんな時、升田先生がぶっきらぼうに“君の将棋は今、行き詰まっている。ワシはそれでいいと思っている。中途半端に活躍するよりいい”って言葉をかけてくれた。そして筆と色紙を取り出して『潜龍』と揮毫してくれたの。“今は潜んでいるが、君はいずれ空に舞って活躍できるゾ”って。行き詰まってもいいと言われ驚きましたが、逆に自信がつきましたよ。それから暫くしてスランプを脱出できた。中原誠さん(十六世名人)に勝って名人にもなり、まさに“空に舞った”わけです」
後進にエールを送った升田の読みは見事的中した。