史上最多ゴールデン・グラブ賞「福本豊」 「野球部に入るな」と言われた少年が起こした奇跡(小林信也)

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「ずっと身体が小さくて、野球が上手いと言われたことは一度もなかった」

 福本豊が振り返る。

「大鉄高校(現・阪南大学高校)に入ったのも、機械科自動車コースで手に職をつけるためでした。中学の先生に『お前は野球部に入ったらアカン』って。スカウトされた選手が20人もおる。だから最初は入部しなかった。しばらくしてやっぱりやりたくて」

 100人はいる野球部の隅っこに加わる感じだった。

「朝6時の練習に行くと、ひとり5本ずつハーフバッティングをやらせてもらえた。打っていると後ろから網智(あみさとし)監督が『お前、ミート上手いな』と。褒められたのは生まれて初めてやった。メッチャ、うれしかった」

 それから自主練習に気合が入った。練習帰り、近大付高に進んだ友人と落ち合い、公園でスイングを繰り返した。誰が置いたか、柱にダンプカーの大きなタイヤがくくりつけてあった。

「手首をバチッと利かさないとバットが撥ねるんです。あの練習がプロに入ってから役に立った。阪急では、インコースのボールをさばけないとレギュラーになれなかったんです」

 松下電器に入社後、夢にも思わなかったプロ野球に誘われたのも、偶然と幸運の産物だった。

「藤井道夫さんいうスカウトが、同僚の加藤英司を見に来てはった。たまたまその試合で、センターからストライクのバックホームで刺したんです。当時阪急に守備固めと代走専門の山本公士さんって先輩がおられた。その後釜やったんでしょう」

 山本は実働7年で645試合出場。打席数は366。だが103もの盗塁を記録している。

「あの人みたいになれたらいいなあ思ってました」

 それが福本のプロ野球での最初の目標だった。

“打”も“守”も下手くそ

 社会人では、当てるバッティングを勧められた。阪急では強く鋭い打球を求められた。

「西本監督に、『ボテボテの内野安打なんてその時だけや。長いことレギュラーは張れん。ツボに来たらスタンドに運ぶ怖さも持たんと』と言われた」

 1年目が終わるとき、

「来年のキャンプまでにこういう格好で打てるようにして来い。そしたら使う」

 そう言って、西本は福本に大熊忠義らの打撃を見せた。身体が小さくても鋭く振り切る力強い打撃だった。

「オフの間、毎日10分だけはバットを振ろうと決めてやった。だんだん、30分、1時間と。振るうちに自然とバットの抜けるところを覚えました」

 キャンプで打ってみると、打球が楽々スタンドに入るようになっていた。

「自分でもビックリしました。捉えるポイントが一定して、強いライナーが打てるようになった」

 福本といえば盗塁が真っ先に語られる。が、打撃の開花なしにはMLB記録をも凌ぐシーズン106盗塁は記録できなかった。

 通算2543安打、ホームラン208本は“小さな大打者”の証だ。三塁打は歴代1位の115本。ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデン・グラブ賞)12回はいまも史上最多記録だ。

「外野守備は下手くそでねえ。入ったころはノックでしょっちゅう万歳してました。練習の後、居残りで外野ノックを仰山(ぎょうさん)受けました。ノッカーが3人で200本くらい。ホームラン王にもなった慶應出の中田(昌宏)コーチが生きた球をガンガン打ってくれて、下手くそだったから、やればやるほど上手くなりました。打球を見なくても、落下点がすぐわかるようになった」

 福本の話を聞いていると、希望が湧いてくる。中学時代、やっと試合に出してもらえたレベルのチビっ子が、世界一の盗塁王と呼ばれる選手に成長する。いつ野球をやめても不思議ではなかった。けれど、好きだという気持ちと次々に現われる恩師に恵まれて、隠れた才能の花を咲かせた。

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