ライター「スズキナオ」が“度が過ぎるアッサリ”タンメンの魅力を語る

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「生駒軒」と出会うまで

 お酒や食べ物まわりの記事を手掛けるライター兼ミュージシャンのスズキナオさん。そんなスズキさんが15年ほど通い続けるのが、東京・人形町の老舗町中華「生駒軒」だ。大阪に引っ越した今でも通うというそのお味とは。

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 中央区日本橋人形町に生駒軒(いこまけん)という中華料理店がある。私はその店のタンメンをよく食べる。かれこれ15年ぐらい食べ続けていると思う。なぜかといえば、その店が実家の近所にあるからである。

 私の父は東北の山形県に生まれた。山のふもとにある小さな衣料品店の次男で、若い頃から東京に憧れていた。大都市としての印象よりもかつてそこにあった江戸文化に強く惹かれていたようで、それを求めて山形を出た。とにかく“江戸っぽい仕事”がしたかったらしく、まず浅草で人力車を引こうとしたが、体力が足りずにすぐあきらめたという。その次に出会ったのが呉服の卸し業で、寛大な会社に雇い入れてもらうと、母と生まれたばかりの私と3人で近くにアパート暮らしを始め、やがて独立した。

 規模は小さくとも日本橋人形町に自分の会社を構えるという夢をかなえた父は、長期のローンを組んで隣町のマンションの一室に住まいを定めた。そのようにして、私は人形町あたりで幼少期を過ごすことになった。

 父にとっては憧れの地だったかもしれないが、子どもの頃の自分にとって、人形町は遊び場の少ない町という印象でしかなかった。走り回れるような広場もないし、商店街に立ち並んでいるのは自分と縁のない古い店ばかりに思えた。数少ない心の拠り所だったおもちゃ屋も本屋もCD屋もどんどん潰れてビルに変わっていった。遊びに行くなら自転車にまたがって隅田川を越え、江東区の森下や大島に行く方が断然楽しかった。

「これだよ、これ」

 そんな私が生駒軒に通うようになったのは20代半ばとなった頃。近くに事務所を持つ父の仕事仲間のもとでアルバイトをさせてもらうことになったのがきっかけだった。昼の休憩時に人形町周辺の店であれこれ食べるのが楽しみになり、甘酒横丁沿いの生駒軒にも足を踏み入れた。

 他にも好きな店はたくさんできたが、生駒軒のラーメンだけは気分や体調を選ばず、どんな時でも不思議と食べる気になった。特にこの店のタンメンには驚かされた。度が過ぎるんじゃないかと思うほどにあっさりしている。スープを一口飲んでも最初はただのお湯としか感じられない時すらあった。ごま油の風味がするがかなり控えめで、どんぶりを覆い尽くさんばかりにたっぷり乗った野菜の旨みの引き立て役にまわっている。インパクトはないが、毎日でも食べられる味。近所だからこそ何度も食べ、何度も食べたからこそ好きになっていった気がする。

 それから10年あまりが経ち、私は大阪に引っ越すことになった。たまに実家に顔を出すと、必ず生駒軒に立ち寄ってタンメンを食べる。父や母も一緒に来て、みんなで麺をすするのが家族行事のようになってきた。

 東京から離れた場所にいて思い出すのはなぜかこの店のタンメンの淡い味わいだ。来るたびに変わっていく東京の風景の中で、まだ自分の居場所がほんの少しだけはあることを確かめるように、「これだよ、これ」と思いながらスープを飲み干すのだ。

スズキナオ
ライター、ミュージシャン。1979年東京都生まれ。近著に『関西酒場のろのろ日記』など。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月6日掲載

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