岡本和真がキャンプ「主将」、1年だけ巨人の主将を務めた私の経験【柴田勲のセブンアイズ】

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 プロ野球は12球団が一斉にキャンプインした。新型コロナウイルス感染拡大を受けて無観客での球春到来となったが、宮崎・沖縄から活気ある話題が届いている。

 それでもクラスター(集団感染)など複数の感染者が出た場合は地域に迷惑をかけるという観点から途中打ち切りの可能性も出てくるという。3月26日の開幕を予定通りに迎えるためにも12球団がそろって無事にキャンプを完走してほしい。

 巨人は宮崎の1、2軍、ジャイアンツ球場の3軍、さらに東京ドームのS班の分散キャンプインとなった。S班は菅野智之、坂本勇人、丸佳浩、亀井善行らベテラン、外国人中心で5日には沖縄那覇入りする。

 注目を集めているのが桑田真澄投手チーフコーチ補佐(52)である。15年ぶりの復帰である。その復帰に関してはさまざまに取沙汰されている。原辰徳監督の後任筆頭候補とくれば、阿部慎之助2軍監督だが、その対抗馬ではないか。また、年上の宮本和知チーフコーチ(56)とうまくいくのか。さらには自身の理論に絶対の自信を持っている桑田と衝突する選手やコーチが出るかもしれない。

 いろいろ言われているけど、私は以前にも記したように原監督は桑田の持つ経験・知識・技術を買ったのだと思う。

 あの身体(身長174センチ)で高校時代からエースとして活躍し優勝経験がある。巨人時代は斎藤雅樹、槙原寛己と並ぶ3本柱の一角を担った。修羅場をくぐり抜けてメジャーにも挑戦した。野球の勉強にも熱心だ。

 原が桑田を好きなのかどうか、人間関係はわからない。だが、原監督の狙いはあくまでも投手陣、特に若手の底上げにある。宮本は投手をどうやって使うかなどに集中して、一方の桑田は育成を担当する。理論に加え、経験に基づいた技術を教える。これでいい。

 私も桑田の能力を評価しているが、ひとつ合わないところがある。それは、「投手はボールから入っていくことも必要」としている点だ。私、投手はストライクを先行させて打者を追い込み打ち取る。打者は打者で甘い球を初球から狙う。これが基本だと思う。外国人選手や長距離砲には誘い球としてボールを投げることもあるが、最初から投げる発想はない。桑田のようにコントロールがいい投手ならいつでもストライクを取れるかもしれない。そこは考え方の違いだ。ただ、誘い球とはちょっとニュアンスが違うような気がするのだ。

 ところで、岡本和真内野手が原監督から宮崎キャンプの主将(キャプテン)に指名された。現主将は坂本だが、次期主将として見込んでいる。いわば予行演習だろう。

 まだ24歳だが、昨年本塁打と打点の2冠を獲得し実績がある。原監督にすればチームを引っ張ってもらいたい。いままで以上に自覚を持ってほしい。この願いからで、「肩書が人を作る」ということもある。リーダーシップを発揮し実績を積み上げる時だ。 私も主将を務めたことがある。1976(昭和51)年、長嶋(茂雄)監督の2年目で私の前が王(貞治)さん、その前が長嶋さんだった。二人はどちらかといえばプレーに専念していた。

 主将として選手と監督・首脳陣間のパイプ役というのか、まあ潤滑油的な存在になろうと考えた。選手から不平や不満を聞き、自分なりにかみ砕いて首脳陣に伝えた。お互いの立場でチームをよくしようと思ったのだが、「柴田は幹部批判をしている」と受け取られたり、さらには「胡散臭い動きをしている」と見る向きもあった。

 北陸遠征中にはコーチと衝突した。相手は守備・走塁コーチの黒江(透修)さんだ。私、一死で二塁にいた。打席には張本(勲)さんである。三塁を狙った。成功すれば犠飛で生還できる。だが、アウトになった。黒江さんから、「なぜ走った」と聞かれたので、「いつ走ってもいいと言われている」と返して、さらに言い争いになった。コーチ批判と受け取られた。シーズンオフにトレード候補として新聞に報じられた。日を追うごとにストーブリーグの主役になっていく。連日、新聞の見出しになった。信じられなかった。この年は成績もよく、阪急との日本シリーズでは打撃賞・敢闘賞を獲得した。しかも主将だ。

 だけどさまざまなことが積み重なっていた。1977年のジャイアンツカレンダーからも外されていた。トレードに出されたら辞めようと決めて球団に伝えた。巨人一筋を貫きたかった。結局、トレードはなかったのだが、私はキャンプ前に、「キャプテンを辞退させてください。プレーに専念したいのです」と球団に申し出た。キャンプ前にスッキリさせたかった。

 巨人の主将制度は76年で一度は終止符が打たれた。復活したのは22年後の1998年、吉村禎章(1軍作戦コーチ)が第16代主将に就いた。現在の坂本で第19代目だ。

 想い出話が長くなってしまった。さて、岡本だが、今年はもっともっと打点を稼いでほしい(昨年は97)。川上(哲治)さんは現役時代、打率を気にしていたが、監督になって、ここぞのチャンスで打ってくれる選手は本当にありがたい。頼もしい。こう思ったそうである。 多少打率が低くてもファンやベンチの期待にしっかり応える。岡本にはこれまで以上に勝負強い打者になってもらいたい。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月5日掲載

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