「もう年齢を数えるのもやめた」 戦慄の「8050問題」ルポ コロナ禍で相談件数が5倍に
大企業に就職したら…
こうしてスパゲッティが目の前に置かれる。でも、食は進まない。道代が怒る。
「食べたくないなら、食べなくていい!」
皿を奪い、流しに投げつけ、スパゲッティが散乱する。そこへ茂夫が帰宅すると、道代は声高に訴える。
「お父さん、この子が『どうしてもスパゲッティが食べたい』と言うから出してあげたら、『こんなもの、食えるか』って捨てちゃったのよ。お父さん、殴って」
茂夫は妻に逆らえずにズボンからベルトを外し、息子を打ち据えるのだ。
スパゲッティがチャーハンのこともある。同様に旅先でも母による冤罪が作られ、父が息子への虐待者となる。
池井多は一橋大に入るため、小学生の時から深夜2時までの勉強を強制された。
「従わないと、決まって『お母さん、死んでやるからね』と言う。幼い子にとって親の死は自分の死より恐ろしい。だから、どんな理不尽も受け入れました」
池井多は一橋大に合格した。母親は自分への虐待を詫びるだろうと思ったが、「おめでとう」の言葉すらなく、こう言い放った。
「明日から英語の勉強をしなさい。私は一橋の英語のレベルを知ってるから」
ついに家を出た。そして卒業直前、大手企業の内定を得たが、うつを発症した。
「母親の言うことを聞くのもここまでだと思いました。このまま大企業に就職したら、母親の虐待を肯定してしまうことになる」
当時、ひきこもりという概念はなかった。周囲に格好がつかないと感じた池井多は、バックパッカーとして海外を旅した。彼いわく「そとこもり」だ。国際ジャーナリストとしての仕事をした時期もあるが、今もうつで働けない状態だ。
「毎朝、母親への怒りで目が覚めます。だから動けない。布団の中で、冷凍サンマのようにピキーンと固まっているんです」
他方、支配的ではない、甘い母も問題を起こす。
敦也(仮名)は54歳(取材時、以下同)という実年齢より10歳は老けて見えた。髪は後退し、前歯は1本しかない。話しても空気が漏れて聞き取りづらく、唾が溢れるのを拭いながらの会話には、なぜか不自然な間があった。
敦也がひきこもりとして支援対象となったのは、83歳の母と50歳の妹が生活困窮者自立支援のための窓口に駆け込んだからだ。
母・和子(仮名)と二人で暮らしていた敦也は、働くこともなく親に金の無心を続けていた。結婚して自身の家庭を持つ妹が、強い危機感を抱いたのは無理もない。
彼女は意を決し、支援者に思いの丈をぶつけた。
「母がこのまま兄の言いなりで面倒を見続けるなら、縁を切るつもりです。母が亡くなった後、兄の面倒を見るなんてとんでもない」
父は大手ゼネコンの元幹部だ。関西の高級住宅地に構えた豪邸で、一家は裕福な暮らしを営んでいた。
敦也は名古屋の大学に進み、卒業後「もう少し勉強したい」と願い出た。父は大学進学と同時に始めた毎年300万円の仕送りを結局、自らが世を去るまで25年以上、今から7年ほど前、息子が49歳になるまで継続してしまうのである。
好き勝手していた敦也だが、仕送りが途絶えるや家に戻り、母に金を要求した。聞き入れられないと敦也は暴力に及んだ。母は金を用立てるため豪邸を売り、かわりにマンションを買った。それでも盛り場で散財する敦也のため、最終的にはそのマンションまで売る羽目に。
齢を数えるのもやめた
2010年に厚労省が策定した「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」では、「他者と交わらない形での外出」もひきこもりの範疇に加わった。これによれば、盛り場をただふらついていた敦也も、20代から一貫してひきこもりだったことになる。
支援員は和子に迫った。
「お母さんは家を出てください。絶対に戻らないでくださいね。お金を渡しちゃダメですよ」
「わかりました」
和子はそう言って家を出ても、また戻ってくる。
「あの子は私がいないとダメなの。あの子、いい子なの。気立てがよくて、長男としての意識も高いのよ」
父の遺産相続金200万円を渡す時も、支援員から「条件をつけて」と忠告されたのに、和子は、「いい? これが最後よ」と告げてあっさり手渡し、放蕩息子に3カ月で使い果たされてしまう。
ようやく和子が敦也と距離を置く覚悟を決めたのは、支援者や妹の説得のみならず、自身にがんが見つかったことも作用した。
敦也は生活保護を受給し、単身でアパートを借り、早朝の3時間、コンビニの仕事をすることになった。のちにはドラッグストアでも職を得るが、この収入を隠していたことが露見し、公的支援は打ち切られた。
敦也が身を置いた家庭で、子育てとは“金を子どもに渡して終わり”だったと言っていい。母親は息子をコントロールできないというより、自分のことすらきちんと律せていなかった印象が強い。「甘い母」は、自身の治療を優先せざるを得ない局面に立ち至り、やっと息子を手放したのだ。
さて、医師の長男として生まれた53歳の薫(仮名)もやはり、家庭は経済的に恵まれながらも、別の闇を抱えていた。
彼がまとう雰囲気は爽やかで、「遅れてきた青年」といったところだが、専制君主のような父から休みなく「医者になれ」と言われた。これに理不尽な暴力が加わる「教育虐待」としか言いようのない環境のもとで成長したのである。
薫は「医者になりたくない」と父に言明。教育学科に合格した。3浪したのは高3の1月に父が、勝手に遠方への引っ越しを決めたからだ。卒業時、教員採用試験に合格できず、バイトをしながら試験勉強を続けたが、やがて27歳の時に心が折れた。一人暮らしをしていたアパートにひきこもるようになった。
「完全な昼夜逆転。将来を考えても辛くなるので、考えることも放棄しました」
数年を経て30歳の時、母親の勧めで家に戻ったが、
「少し休めば気力も湧くかと思ったのに、どんどん落ちて行くばかり」
なぜなのか。母はひきこもり支援機関や、精神科医などに助けを求めた。薫はそんな母に対して、申し訳ない思いを抱えていた。
「でも、母に『この先、どうすんの? このままじゃ……』と言われるとつらくなり、2階の自室からなるべく出ないようになってしまいました」
時間は1年、また1年と足早に過ぎ去っていく。
「もう、自分の誕生日を意識するのもやめました」
37歳の時、母が探してきたNPOに所属。動きがいいと褒められ、その紹介で非常勤講師として公立小学校の教員になる。
「自分は(周囲に)流されてしまうんです。教員なんていう激務は無理だった。1年が限界だった。言われるがまま引き受けてはダメになってしまう」
41歳でまたひきこもり、50歳までそれは続いた。
当然、両親は高齢化する。薫ははっきり思っていた。
「今は両親がいるから、食事もできるし生きていける。でも、こんなの続くわけがない。いずれ破綻する」
不安でたまらなかったが、考えようとはしなかった。
「僕は毎日、お父さんから虫けらみたいに無視されているけど、誰にも迷惑をかけずにひっそりと生きる」
そんな薫が自宅を離れた背景には、母が探してきた支援者の存在がある。
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