「文在寅」も“白旗”会見、「慰安婦問題」とは、そもそもどういうものだったのか?
誤解される女子挺身隊
元慰安婦が日本政府に損害賠償を求めた裁判で、韓国の裁判所は日本政府に賠償金の支払いを命じるという信じられない事態が起きた。文在寅大統領も会見で「困惑」という言葉を使って司法の判断に異を唱えた恰好だ。この機を捉え、日韓関係をこれほどまでにこじれさせる慰安婦問題とは、「そもそもどういうものだったのか」について、ひもといてみたい。
慰安婦問題は1982年、旧日本軍が朝鮮人婦女子を強制連行したという文筆家・吉田清治氏の創作した「吉田証言」を朝日新聞が報道して広がった。
1989年、吉田氏の著作が韓国で出版されると、済州新聞の記者が取材したが、強制連行の証拠は得られなかった。
記者は「250余の家しかない村で15人も徴用したら大事件だ。そんな事実はなかった」という証言を紹介し、「吉田証言」は虚偽だと非難した。
慰安婦は、「日本人作家の偽証と日本メディアの虚偽報道」を批判する材料になったのだ。
1991年、金学順氏が元慰安婦だと名乗り出て状況が変わった。
翌92年1月に当時の宮沢喜一首相が訪韓して元慰安婦に謝罪し、合わせて真相を究明すると公言した。
当時、朝日新聞のソウル支局員だった植村隆記者は金学順氏を強制連行の被害者だと報道したが、金学順氏は韓国メディアのインタビューで、生活が苦しかった親に売られたと話している。
朝日新聞は、「旧日本軍は、朝鮮人婦女子を『女子挺身隊』などの名で前線に動員し、慰安所で日本軍人相手に売春させた」という「吉田証言」を報道。韓国で「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が発足した。
第2次世界大戦時、朝鮮では挺身隊に志願すると慰安婦にされるという噂が流布していた。
女子挺身隊は戦局の悪化による徴兵の拡大で不足した男性労働力を補うため、1944年8月に女子挺身勤労令が公布され、日本人女子は半強制、朝鮮人は希望者を募って軍需工場などの労働に従事させたもので、慰安婦とは関係ない。
河野談話と村山談話
日本政府は1965年、韓国政府と日韓基本条約や日韓請求権協定を締結し、個人補償金を支払った。
個人補償は、旧日本軍人や韓国が徴用工と呼ぶ元朝鮮半島出身労働者、挺身隊などを対象としたが、元慰安婦は含んでいなかった。
韓国政府が要求しなかったのだ。
基本条約の締結に向けた「日韓国交正常化交渉」は朝鮮戦争真っ只中の1952年にはじまったが、当時、韓国軍は自国軍兵士や米国を中心に組織された国連軍兵士のための慰安所を運営していた。
日韓基本条約を締結した65年もベトナム戦争の最中で、韓国軍は韓国軍人と在留米軍人ための慰安所を韓国内で運営し、またベトナムでも慰安所を運営していた。
韓国政府は1990年代、慰安所の廃止に本格的に動き出した。
韓国が日本に対して旧日本軍慰安婦の謝罪と賠償の要求をはじめた時期である。
韓国は河野談話を強制連行の根拠として取り上げるが、その中に朝鮮で強制連行があったという記述はない。
終戦50周年に当たる1995年8月15日、村山富一首相は、いわゆる村山談話で21世紀に向けた展望を述べると同時に、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と謝罪。
また談話に先立つ同年7月、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を発足させて、韓国、台湾、フィリピンの元慰安婦に償い金を支払い、オランダとインドネシアで福祉事業を実施した。
日本の対韓外交が「謝罪外交」と揶揄された時期がある。
1984年9月、日本を訪問した全斗換大統領に、昭和天皇と中曽根康弘首相が過去の朝鮮統治に対する謝罪を述べ、以降、盧泰愚大統領夫妻、金大中大統領など日本を公式訪問した韓国の首脳に、陛下は謝罪の言葉を述べられた。
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