「二階俊博」を権力者にした“気遣い伝説” 視察に美女を手配、お土産の配り方も一流

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「表の顔」と「裏の顔」

 日本経済新聞の記者だった政治評論家の篠原文也は、二階が衆院議員に初当選して以来40年近くの親交を持つ。

「あれは二階さんが当選1期目のことだったと思います。ある経済人から『会わせたい人がいる』と言われたのが二階さんでした。赤坂の料亭『大乃』で、3人で会食する予定になっていたんですが、私は仕事で到着が1時間ほど遅れてしまったんです」

 待たされているのはイサキから才女まで気が利く男、二階である。

「さすがに、もう料理も出されているだろうと思いながら慌ててかけつけました。すると、なんとまだお茶とおしぼりしか出ていない。驚いて、『先に始めていなかったんですか?』と訊(き)くと、その経済人が『俺は始めようと言ったんだけど、この人が“待ちましょう”と言って料理を運ばせなかったんだよ』と、指をさした先が二階さんでした。これには参った。1年生議員でこんな気遣いができるなんてただ者じゃないと、強烈な印象が残ったことを今でも覚えています」

 源流は田中派で、一度自民党を離れてから復党し、幹事長まで昇り詰める――二階と同じ道を歩んだ石破茂も彼の「角栄流」を目の当たりにしたひとりだ。

「いわゆるロッキード選挙と言われた83年の衆院選で二階さんたちが初当選した時、私は田中派の職員でした。二階さんと当選同期の中で、当時一番輝き、注目されていたのは角栄先生の娘婿の田中直紀さんだった。でも、選挙後に我々のような末端職員まで招き、『皆さん、ありがとう』と言って宴席を持ってくれたのは二階さんだけでした」

 角栄流で磨きをかけた気遣いを武器に、二階は国政を遊泳し始める。

 92年、田中派の流れを汲(く)む竹下派(経世会)が分裂。剛腕・小沢一郎らは政治改革を旗頭に「改革フォーラム21」を名乗り、後に総理となる羽田孜(つとむ)を担いで新派閥を結成。翌年、小沢らは自民党を離党して新生党を結党する。二階も小沢に追随。その後、小沢側近として頭角を現していく。

 流浪を経て老骨となった今なお、小沢は「改革」を叫んで止まない。その小沢の側仕えであったならば、二階もまた筋金入りの改革主義者であるはずだ。

 だが、小沢の知恵袋として知られる元衆院事務局職員(後に参院議員)の平野貞夫は一笑に付す。

「当時まだペーペーだった二階さんは、はじめ、政治改革法案に大反対だった梶山さん(静六・元官房長官)にくっついていましたから政治改革に後ろ向きでした。梶山さんには『おい平野、お前と小沢と羽田は水戸藩の諸生派なんだ。屁理屈ばっかり言って自民党を潰すつもりか!』と、ものすごい剣幕で怒られたものです。二階さんは、もともとはそんな梶山さんの子分でしたから、あくまで世論の流れを読んで『選挙に勝つため』に小沢さんのほうに乗った議員。政治改革とは何かということを全く理解していなかったと思います」

「選挙に勝つ」、つまり「数」を求めて小沢に張った二階は、その後、新生党、新進党、自由党と小沢に付き随(したが)い、側近の座を揺るぎないものにしていく。

 平野が振り返る。

「小沢さんにしてみれば、新生党からずっと自分の後ろをくっついてくる二階さんは、そりゃ可愛かったと思いますよ」

 だが二階の思いは違った。

 99年1月、自民党と自由党による自自連立政権がスタートすると、10月、小沢は寵愛していた二階を運輸相の座に押し込む。この時、二階は60歳。念願の初入閣だった。

 00年、小沢は公明党が加わり自自公となっていた連立政権からの離脱を決意。当然、二階も小沢と行動をともにするものと思われた。しかし……。平野は今でも鮮明に記憶している。

「2000年の4月1日の18時に自自公の3党首会談が行われ、正式に自由党の連立政権離脱が決まることになっていた。その直前、2時間前のことでした。小沢さんが私を呼び出し、こう打ち明けたのです。『昨日まで、中西(啓介・元防衛庁長官)と二階は俺と一緒にやると言っていたのに、さっきふたりが(小沢とは)別れますと言ってきた』と。中西さんも二階さんも、小沢さんの側近中の側近。それなのに、ギリギリになって裏切ったのです」

「二階の駒」を自称し、新進党から今に至るまで、常に二階と歩みをともにしてきた自民党参院議員の鶴保庸介はこう説明する。

「連立政権離脱直前の3月31日、有珠山が噴火しました。二階さんから『そんな時に離脱騒ぎをしている場合ではない』と言われたことを覚えています。大臣の職責をほっぽり出すわけにはいかないんだと」

 だが小沢の元秘書に言わせると、それは二階の「表の顔」に過ぎない。「裏の顔」は、この元秘書が当時聞いた、二階に関する小沢の呟きから浮かび上がってくる。

「まあ、権力の味を知ったってことだわな」

 小沢率いる自由党と袂を分かった二階は保守党、保守新党を経て03年、結局、「ザ・権力」である自民党に復党していった――。

「割り切る」資質

 かつて総理にしたい政治家ナンバー1だった石破茂。令和3年の今、彼は総理候補はおろか派閥の長の座すら失い、自民党の中を揺蕩(たゆた)う。いくつかあるその原因のひとつは、離党経験を持つ出戻り組という点にある。元総理の森喜朗をはじめ、自民党には生え抜きを重んじる文化が残る。

 然(しか)るになぜ、同じ出戻り組の二階は最長幹事長として我が世の春を謳歌できているのか。それは、石破にはないふたつの「資質」を二階が有していたからである。

 ひとつは、自身も幹事長経験者である石破の解説に耳を傾けるとよく分かる。

「本来、党のまとめ役である幹事長は派閥の長であってはいけないわけだ。私が幹事長の時は、派閥を離脱していたしね。でも、二階派は来る者を拒まないというところがあってね。幹事長の権力をどう使うかは人によりけり。何をしようが、幹事長派閥が勢力を拡大してきたってのは、それはもうひとつの割り切りだよ。私はやらないけどね」

 二階を最長幹事長たらしめた「割り切り」。それは05年の郵政政局でいかんなく発揮される。

 変人総理の小泉純一郎が仕掛けた郵政民営化。郵政、それは旧田中派の牙城だった。当然、二階も民営化反対派と目されていた。

 鶴保が回想する。

「私も二階さんは反対派だと思っていたし、反対派の議員からすれば二階さんは頼みの綱みたいなところがありました」

 ところが二階は、小泉から指名された衆院郵政民営化特別委員長のポストを受け、一転、民営化賛成派の旗振り役を担うことになる。

「(当時事実婚していた)野田聖子と、家に帰って二階さんが特別委員長になったことを話し合いましたね。野田に『あなたは二階さんに従って賛成していい』と言われてね。『それなら別れようや』みたいな話をしました」(同)

 野田はその後、反対の立場を貫き自民党から離党勧告を受ける。一方、二階は郵政選挙の際、現在の選対委員長にあたる総務局長を任され、刺客を送って野田ら造反組を追い落とす選挙の責任者の立場を全うする。

 どうして二階は特別委員長を引き受けたのか。鶴保はこう言って苦笑いする。

「聞いたことがない。今でも分からない」

 二階取材歴40年弱の篠原はこう見る。

「二階さんは時のリーダーに求められたこと、与えられたミッションは必ずやり遂げる。小泉さんの時の郵政民営化然り、安倍さんの時も、二階さん自身は憲法改正にそれほど意欲的ではなかったと思うんですが、実は地元の和歌山県で大々的に憲法集会を開いているんです。安倍さんと二階さんは政治的価値観が一致していない部分も多い。それでも、そういうところを二階さんは克服できる人だと感じます」

 自らの「信念」はさておき、時の権力者に従う。この「割り切り」を持っていたら、石破は今どうなっていたのだろうか……。

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