作曲家「中村泰士」が最期までこだわった「ちあきなおみ」 メッセージを依頼するも断られ
作詞・作曲家で歌手の中村泰士(たいじ)さんが亡くなったのは昨年12月20日(享年81)。死因となった肝臓がんの判明からふた月後の悲報だったが、最後まで“あの歌手”へのこだわりを抱き続けていたという。
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ちあきなおみの「喝采」、細川たかしの「北酒場」といったレコード大賞受賞曲の作曲で知られる中村さんは、歌手としても活動していた。昨年11月と12月には、闘病中ながら大阪でライブのステージに立っていた。中村さんの事務所関係者が言う。
「中村先生は、“80をこえても歌を作って歌っているのはオレくらいや”と言っていました。iPadを持ち歩き、あいみょんやセカオワ、米津玄師といった最近の曲を研究していたんです。でも……ライブで最後に歌ったのは『喝采』でした」
病が判る前、こんなことがあった。
「酒の席で、先生が“お前らは死んでも何も残せないけど、オレには音楽がある。歌はずっと生きてるやろ”と話したことがあります。先生は、喝采だけでなく、ちあきファンに根強い人気の『夜間飛行』なども手がけました。やはりちあきさんは、先生にとって特別、思い入れの強い歌い手だったんですね」
長年、マネージャーとして中村さんに寄り添った神田幸氏も、
「とにかく“あの声が素晴らしい”と惚れ込んでいました。いつだったか、“喝采を作った作家でありたい”と口にしたことがあり、とても印象に残っています。私としては“喝采という曲を背負い、凛として生きていきたい”という意味だったのではないかと思っているのですが……」
生涯現役を貫いた昭和歌謡のヒットメーカーの人生に幕が下りた。その報せは、歌姫にどう届いたのか。
いまは一介のおばちゃん
ちあきを自宅に訪ねると、「どうか、お帰りください……」と言うのみ。“恩師”の中村さんの話は聞けなかった。
そんな彼女だが、ここ数年は近しい人を相次いで失っている。一昨年は芸名の名付け親である元フジテレビプロデューサー千秋与四夫(せんしゅうよしお)、昨年は、義兄の宍戸錠。そして今回の中村さんの訃報と続いたわけだが、1992年に夫を亡くして以来貫いている“沈黙”は、変わらぬままだ。
しかし、と先の事務所関係者が明かす。
「少し前のことですが、実は、先生はちあきさんからメッセージを受けとったことがありました。2016年、先生は喜寿の記念に77曲を歌うコンサートを開催したのですが、そのころのことだそうです」
沈黙を守り続ける彼女からの“便り”がどんなものだったかというと、
「喜寿記念のコンサートの翌年、先生は大阪城ホールで観客1万人が歌謡曲を合唱するという大規模なイベントを開催することになっていました。そこに、“VTRでもなんでもいいのでメッセージをもらいたい”と依頼したわけです」
返事は、人を通じて中村さんに伝えられ、
「“いまは一介のおばちゃんですから、中村先生にメッセージを贈ることはありません”と断る内容でした。先生は“頼んだ自分が悪かったと恥じた”と言っていましたが、彼女に、ふたたび表舞台に出てもらいたい一心だったのでしょう」
その強いこだわりは、こんな形でも遺された。
「先生は小説を執筆していたんです。ちあきさんの歌がヒットした当時の歌手たちや、音楽業界を描いています」
作品のタイトルは、「喝采 第二章」とつけられている。