ダイ・ハードから33年、B・ウィリスは今も厄介事に巻き込まれている(『アンチ・ライフ』)

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エイリアン×ゾンビ

 しかし『アンチ・ライフ』の真犯人はブルースその人ではなく、宇宙船内に潜入した地球外生命体=「エイリアン」だった。この怪物はまず捕獲した人間の臓器・血液・神経すべてを食い尽くす。そしてがらんどうになった身体をパラサイト(乗っ取る)して、「ゾンビ」にしてしまうのだ。そしてこのゾンビ、生きている死体たちは人間を次々餌食にし、仲間に加えていく。

 ひと昔前、ハリウッドではクロスオーバー、映画史上の名キャラクターの対決が流行った。『フレディVSジェイソン』(2003)、『エイリアンVS.プレデター』(2004)とその続編(!)『AVP2 エイリアンズVS.プレデター』(2007)。日本でも比較的最近になるが、『貞子vs伽椰子』(2016)などなどがあった。

 これら“VS”モノに対して本作『アンチ・ライフ』は“×”モノ、「ゾンビ映画」と「エイリアン映画」のハイブリッドになっている。そう考えるとこの宇宙船は、「ゾンビ映画」におけるシェルター=外敵からの避難所であり、同時に「エイリアン映画」における外敵の棲息地=狩場でもあることになる。

『アンチ・ライフ』のエイリアンのルックスは、どうだろう?

 H・R・ギーガーが創造したエイリアンは、グロテスクなだけではなく見る者の目を惹く魅力があった。人体の有機性と機械の無機性が結合し、男性器と女性器の要素を併せ持っている。シガニー・ウィーバー演じる女性航海士リプリーは、そんな魅力的なクリーチャーに惹かれながらも対決することになる。

 それに対してこの映画のエイリアンの姿かたちは……映画製作陣による人為的操作、エイリアンとゾンビの異種交配で生まれたミュータント(突然変異体)ゆえだろうか? 神の怒りにふれたのかのような、取り返しようがないくらい醜い。生理的な嫌悪感をもよおす汚物という体(てい)で、だから躊躇なく無重力空間に“排泄”すれば、事は済んでしまうだろう。

 しかし排泄してスッキリ、すなわち人類の勝利で映画は終わらない。そうではなく『アンチ・ライフ』は「ゾンビ映画」的な暗礁に乗り上げるのだ。

『ゾンビ』(1978)のラストでは、バリケートを突破されたショッピング・モールからヘリで逃れた主人公の男女の眼下に、うごめくゾンビの群れが広がっていく。そのリメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)ではもっとはっきり救いのない、どん詰まりの最後が描かれていた。何とか逃げ延びた先の孤島はすでに、ゾンビたちに占拠されていたのだ――。

『アンチ・ライフ』はこちらの、「ゾンビ映画」のバッド・エンディングを選ぶ。

フツーに面白い映画

 以下はネタバレ――人類の未来はゾンビに支配された宇宙船から逃れた一組の男女、ノアとその恋人ヘイリー(カサンドラ・クレメンティ)に託された。しかし約束の地であったはずのニュー・アースでは、宇宙船内でよりはるかに巨大化し、天を衝くほどの高さにまでなったエイリアン(狭小空間から解放されたからなのだろうか?)が、わが物顔にのし歩いていた。

 それでも火炎放射器で敵に立ち向かおうとするノアの傍らに、ヘイリーは佇(たたず)んでいる。胎内にノアとの子どもを宿して。そういえば、モールから飛び立った『ゾンビ』の男女も、あたらしい命を授かっていた。

 チャールトン・ヘストンが砂浜に下半身が埋もれた自由の女神に、地球の未来を見てしまう『猿の惑星』(1968)のような、あまりに苦い結末……なるほど、そっちで来たか。

 ある映画が人気を集めれば当然、続編が作られる。同傾向の映画が量産されて、それがジャンルとなる。スター俳優はそれらいくつもの映画を渡り歩くことで、そのイメージを定着させたり調整・転換したりしていく。もちろん物語の運びにも、パターンが生まれる。

 結末も同様だ。だから『アンチ・ライフ』が「ゾンビ映画」と「エイリアン映画」、どちらの手でピリオドを打っても、それ自体は良くも悪くもない。シリーズ、ジャンル、スター、監督……複数の要素をかけ合わせることで生まれるバリエーションこそが、映画の魅力なのだから。

 それを大前提にした上で『アンチ・ライフ』は、順列組み合わせの妙を楽しんでいる。

 大人だ。

 最近は、やたらと小難しいSF映画が流行っている。でも「誰も見たことがない」「驚愕のラスト」「ネタバレNG」といった類いの文句に、引っ掛かってはいけない。目新しさを売りにするのはいちばん安手のギミック(仕掛け)だ。未来を変えるためにCIA工作員の主人公が、逆行する人間の波をかい潜って決死の順行を試みる――『TENET テネット』のそんな“斬新さ”は、すぐにメッキが剥がれる程度のものだ。

 それより“フツーに面白い”『アンチ・ライフ』の方がずっと大切な映画で、だからそれを“真っ当に”楽しめばいいのだ。

椋圭介(むく・けいすけ)
映画評論家。「恋愛禁止」そんな厳格なルールだった大学の映研時代は、ただ映画を撮って見るだけ。いわゆる華やかな青春とは無縁の生活を過ごす。大学卒業後、またまた道を踏み外して映画専門学校に進学。その後いまに至るまで、映画界隈で迷走している。

週刊新潮WEB取材班編集

2021年1月15日掲載

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