「ジョン・レノン」が亡くなった1980年はどのような“意味”を持つのか ポールの逮捕、幻の日本ツアー

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留置場で歌ったポール

 1980年はビートルズファンにはつらい知らせで幕を開けた。1月16日、成田空港に降り立ったポールが大麻所持の現行犯で逮捕されたのである。ただ、こうしたドラッグが60年代の英米文化において決定的な「悪」でなかったのは間違いなく事実であり、64年以降のビートルズをドラッグの存在無しに語ることはそもそも不可能なほどである。ジョンはヨーコと共に68年に、ジョージも69年に、それぞれ麻薬所持で英国で逮捕されているが、彼らにしてみればたまたま狙われたくらいの感覚だったのだろう。

 だから、ポールの言葉を引けば、「マリファナが悪いものだとは考えていないし、日本でそんな重罪になるとは思わなかった」と悪びれる様子はない。だが、そもそも75年に予定されていた来日公演が薬物所持歴を理由に訪日直前でビザが取り消されたという過去がある。そして、このときの来日も日本側関係者の多大な努力の末にようやく実現したものであったという経緯を知れば、残念ながらこの言動は看過し難い。

 来日直前に「マリファナだけは絶対ダメだ」とあの伝説のプロモーター、永島達司氏に釘を刺されていたにもかかわらず起こした不祥事であり、「日本をなめている」と非難されても仕方ないだろう。この件についてポールも近年では「僕の人生で最も愚かな出来事。家族を持つ一人の大人の男、夫として、父として本当にバカなことをしてしまった。あの頃の僕はどうかしていた」とその当時を振り返っている。約10日間の留置場生活では、隣の独居房のヤクザにせがまれて「イエスタデイ」を歌い、アンコールに応えて4曲も披露したというエピソードもある(鉄人社『獄中で聴いたイエスタデイ』に詳しい)。少しの日本語を覚えて、他の囚人と一緒に入浴したといったエピソードもあるが、20世紀最高のミュージシャンと称されるポールにはあまりに不似合いな話である。このときの来日はウィングスとしてのものだったが、結局この件が引き金となってバンド活動は休止。翌81年にはバンドの良心的存在であったデニー・レインが脱退して、ポールにとっての70年代そのものだったウィングスが終焉を迎えたのもこの80年であった。

 帰国後、ポールはソロ2作目にあたるアルバム「マッカートニー2」をリリースするが、全体にかなり異色な作風であり、この時期のポールがその先行きを自分でも考えあぐねていたことを窺わせる。一方、ジョージは78年に新しい伴侶オリヴィアと再婚し、79年には名作アルバム「慈愛の輝き」を発表したが、商業的には振るわず、80年には、発売予定のアルバムが「キャッチーな曲が少なく、内容が暗い」との理由で、レコード会社から曲の差し替えと発売延期を求められるという屈辱的な体験をさせられている。ソロデビュー当初は好調だったリンゴも、70年代後半には離婚や病気、更には自宅の火事など災難続きで、音楽活動も全く振るわない状態であった。このようにジョン以外の3人は1980年に向かってやや下降傾向にあったように見える。

幻の日本発ツアー計画

 そんな中、ジョンにとっての80年は、子育てと主夫生活も一段落し、ようやくアーティストとしての再スタートを切る未来への希望に溢れた一年となる筈だった。アルバム「ダブル・ファンタジー」では「スターティング・オーバー」という曲が象徴するように、ビートルズのジョンでもなく、ヨーコに過度に依存しているのでもない、一人の自立した大人の男として絶好調にあったジョンに出会うことができる。「75年には書けなかった曲だ。この5年間のお陰で、自分自身のイメージから解放された。意識せずにまた曲が書けるようになったのが本当に嬉しい」との言葉もあり、81年には日本から始まるワールド・ツアーを計画していたという。そして、12月8日、あの悲劇が起こった。

 リンゴは目の前で最愛の夫を亡くしたヨーコの元にいち早く駆けつけ、ジョージは怒りと悲しみで錯乱しつつもマネージャーに助けられながら辛うじてコメントを発表。ポールは自らも危険を感じたようで、厳重な警備態勢を敷いて英国南部の自宅に塞ぎ込んでしまう。後に、犯人のマーク・チャップマンは刑務所で「ポールも今の自分に逢えばきっと好きになるだろう」と語ったというが、ポールは「自分は誰でも許せるが、コイツだけは許す理由がない」とコメントしている。

 残された3人のジョンへの想いは、3人全員が参加することになったジョージの曲「過ぎ去りし日々」(81年)やポールの「ヒア・トゥデイ」(82年)などでも歌われ、リンゴの場合も、目立った追悼歌はないものの、近年の自作の至るところでジョンへのその強い想いを確認することができる。ただ、ジョージに関しては、79年に発表した自伝『I Me Mine』に、自身についての記述が少ないとジョンが腹を立てたことから、最期まで心がすれ違ったままだったようだ。ポールは「僕はジョンと仲直りしていたからまだ救いがあったけど、ジョージはジョンと言い争いしたまま別れることになってしまった」と語っている。

 ジョンが殺された1年後に、六本木キャバンクラブがオープンしたように、以降、世界中にビートルズナンバーをオリジナルに忠実に再現する多くのビートルズ・トリビュート・バンドや、ビートルズ専門のクラブが誕生することになる。熱心なビートルズファンの共通性は、音楽だけでなく、その生き方や魂の在り方までをトリビュートしようとするところにあるのかもしれない。1980年、確かにビートルズの4人がさらなる展開を繰り広げたかも知れない未来への扉は永遠に閉ざされてしまった。しかし、ビートルズを愛し、その伝説を追い求める者たちによる未来への新たな旅路はこの1980年に始まったと言えるのではないだろうか。

丸山眞弘(まるやままさひろ)
ミュージシャン・ライブハウス「CRAWFISH」オーナー。東京生まれ。早稲田大学英文科卒。大学時代よりビートルズの演奏や研究に没頭。赤坂のライブハウス「CRAWFISH」のオーナーとなり、自らもミュージシャンとして演奏活動を続ける。

週刊新潮 2020年12月31日・2021年1月7日号掲載

特集「1980年のビートルズ『ジョンとポール』の受難“裏”物語」より

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