失われた記憶が甦る! 認知症の音楽療法とは 感情記憶を刺激して記憶の低下が回復

ドクター新潮 医療 認知症

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病室からハミング

 武雄さんが歌いやすいように演奏を合わせているのかと訊ねると、飯塚さんからこんな答えが返ってきた。

「私も伴奏しますが、セッションが進むにつれて武雄さんも私の音楽に合わせてくれます。息がピタッと合うのは、嬉しい瞬間です。芸術の世界ですよ。特に最後の曲では美奈子さんに聞かせる音楽を二人で作ろうっていう目的を一つにしているんです。そこに病気は存在しません」

 武雄さんは「すごいことをおっしゃいますね」と目を丸くした。筆者はどうやら音楽療法の現場を見に来たつもりが、単に音楽を体験していたらしい。力強く、美しく、一度きりの感動的な音楽を。

 飯塚さんは、プロの音楽家に、もっと音楽療法の世界に飛び込んでほしいと考えている。病院、福祉施設で活動する音楽家が身につけておくべき医療、介護の知識を提供する団体として「臨床音楽協会」を東京女子医科大学名誉教授の岩田誠氏らと共同で2017年に設立した。「臨床音楽士」の資格制度も作った。

「緊急事態宣言下で、病院への家族の見舞いまで制限されたとき、京都医療センターの病棟のデイルームや廊下で、私がヴァイオリン、この病院のもう一人の谷口奈緒美・音楽療法士がキーボードを演奏しました。事前に看護師さんに患者さんからリクエストを集めてもらって。姿は見えませんが、どこかの病室からハミングや歌声が聞こえてきて嬉しかったですね。コロナ禍で演奏の機会がなく、苦労している音楽家はたくさんいると思います。病院に勤務する私たちには演奏で音楽を届けることができた。ぜひ病院に一人、音楽療法士、臨床音楽士を!って心から叫びたいです」

 入院患者だけでなく、人間的な交流が分断されたコロナ禍の巣ごもり生活で、高齢者の認知症が発症したり、進行するケースが増えているとも聞く。

 家族との面会もままならない不自由な生活を強いられる中、患者たちは贈り物のように届けられた好きな曲の生演奏に、どれほど癒やされたことだろう。武雄さんと美奈子さんに話を戻せば、物がわからなくなることさえある夫から、替え歌で自分への変わらぬ愛を伝えられる時間が、どれほど心の支えとなることだろう。こうした体験が、治療効果という枠組みだけで判断されるのはあまりにも惜しい。

 音楽には、病気も治療も超越した世界を作り出す力がたしかにある。筆者はその不思議な力を目の当たりにした。そういう視点で音楽療法を捉えられるかが今問われていると思う。

緑 慎也(みどりしんや)
科学ジャーナリスト。1976年大阪府生まれ。出版社勤務後フリーとなり、科学技術等をテーマに取材・執筆活動を続けている。著書に『消えた伝説のサル ベンツ』(ポプラ社)、『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社・山中氏との共著)などがある。

2021年1月5日掲載

特集「失われた記憶が甦る!『認知症の音楽療法』」より

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