失われた記憶が甦る! 認知症の音楽療法とは 感情記憶を刺激して記憶の低下が回復
劇的な変化
それならばと考案したのが「フラッシュソングセラピー」だ。一曲を最初から最後まで演奏するのではなく、多数の曲をフラッシュで、つまり光が短い時間で明滅をくり返すようにメドレー形式で演奏し、前奏から記憶を喚起し、心地よいテンポで次々と歌えるプログラムである。
「1回のセッションで30~40曲ほどメドレー的に提供するスタイルにしてみました。参加形式も、みんなが集まってからはじめるのではなく、いつ参加して、いつ帰ってもかまわないようにしたところ、みなさん帰らずに最後までいてくれるようになりました。いろいろな曲が流れると、いつ自分の好きな曲が出てくるかと思ってワクワクされてるんですね」(同)
しかし、大人数に対する一斉の音楽療法に限界も感じた。特に認知症の当事者たちを大勢集めて音楽療法をしても反応してくれるのはいつも決まった人ばかりで満足のいく効果は得られなかった。中には首を下に傾けたままで何ら反応しない人もいた。そこで試みに4、5人に絞って、丸テーブルを囲んで音楽療法を施すと、劇的な変化が見られた。大人数の時はうつむいていた人が顔を上げ、積極的に声を出し、表情も豊かになったのだ。
「認知症の症状が進んでいるからといって歌えないわけじゃない。こちらが歌えるように曲を提供していなかっただけなんです」(同)
大人数より少人数がいいのなら、少人数より1人がいい。夫の転勤に伴い、東京から移住した京都で、飯塚さんがマンツーマンの音楽療法に行き着いたのは自然の成り行きだった。
京都医療センターの塚原徹也医師(現・副院長)から招かれ、音楽療法士として働きはじめたのが2008年。その翌年には、同神経内科の中村道三医師との共同研究「認知症に対する音楽療法」をスタートさせた。冒頭の武雄さんが参加したのも、このプロジェクトである。現在は十川純平医師が引き継いで、非薬物療法としての音楽療法の効果を検証中である。
「私たちの音楽療法の効果として多かったのは睡眠の改善です。ぐっすり眠れることはご本人にはもちろん、ご家族にもメリットが大きいですね。それから“穏やかになった”、“表情が明るくなった”“意欲が出てきた”という声もよく聞かれます」(同)
普段は首を下に曲げて座ったままほとんど反応を見せない女性(65)が、ある曲を聴くと突如、立ち上がり、笑顔でリズムを取ったこともあった。
「ご主人に『ハワイに行ったことがありますか』と聞いたら『ある』というので、試しにアロハ・オエ(ハワイ民謡)を演奏してみたんです。そしたら大きく反応されて驚きました。こんなに大切な曲だったんだって。新婚旅行先がハワイで、出発前から歌っていたとご主人が話していらっしゃいました」(同)
「感情記憶に刺激を与える」
認知症とは病状が異なるが、特定の曲がいかに記憶と強く結びついているかを示すこんな事例がある。
1980年、福岡県志摩町(現・糸島市)の海岸線を、一人の青年が大雨の中ずぶ濡れになりながら裸足で歩いていた。保護された青年は、自分の名前も住所もなぜここにいるのかも思い出せないという。いわゆる記憶喪失だ。県内の病院に入院後、忘れたいという願望により自分の過去を本当に忘れてしまう「限局性健忘症」と診断されたものの、一向に記憶が戻る気配はない。ところが、約1カ月後、病院の同室者のラジオから甲斐バンドの「翼あるもの」が流れ出すと、青年は突然頭を抱えて震え出した。そして病室に飛んで来た医師にすらすらと自分の名前や住所を話し始めたのだ。青年は無事記憶を取り戻し、東京から駆け付けた両親と1カ月ぶりの対面を果たした。
当時の報道によれば、青年は大学生で、アルバイトや卒論の準備などでストレスがたまっていたからではないかと、自身の記憶喪失の理由を推測している。
卑近な例を出すと、筆者は、globeの「DEPARTURES」を聴くと、なぜか学生時代のアパートの光景がありありと目に浮かぶ。はじめての一人暮らしの不安と相まって当時流行していた旅立ちを意味するこの曲が強く記憶に刻まれているのだろう。しかし、今はそのCDを持っていないし、特にglobeのファンだったわけでもない。仮に私が認知症になって記憶を失ったら、家族はこの曲にたどり着かないかもしれない。先の記憶喪失の青年の例でも、同室者のラジオから「翼あるもの」が偶然流れてこなかったら、記憶を取り戻せていなかったかもしれない。
「どんな音楽がお好きですか、どんなCDをお持ちですかとまずご家族に聞きますが、そういう情報が得られなくても、年代、性別を手がかりに絞りこんでいきます。年代から、その人が子どもの頃、学生の頃、就職した頃、結婚した頃などに流行った曲を試して、チョイスします。軍歌、懐メロ、演歌、オールディーズ、グループサウンズ、フォーク、シャンソン、時間の許す限り、どんなジャンルでもとにかく練習です。最近の曲は追いつきませんが、アンテナは高くして勉強するようにしています」(同)
音楽のジャンルは多岐にわたり、人の好みもばらばらだ。個人にカスタマイズされた曲を提供する音楽療法士には豊富な音楽の知識が必要になるわけだ。
一方、私たちも思い出の曲をリストにして残しておけば、いつの日か役立つときが来るだろう。
なぜ音楽を聴くことで、記憶は甦るのか。飯塚さんが京都医療センターとかけ持ちで音楽療法士を務める京都認知症総合センタークリニック支援研究所所長の秋口一郎さんが語る。
「アルツハイマー病で失われやすいのは、現在と未来の出来事や予定に関する記憶です。一方、喜怒哀楽に関わる感情記憶などは残りやすい。そこが音楽療法の攻め口なんです。音楽療法で感情記憶に刺激を与えることで、出来事の記憶の低下が回復することがあります」
同センターのグループホームに入所している70代の認知症の女性は、普段は伏し目がちで、ほとんど話すこともないが、盆踊りの曲が聞こえると、目を光らせ、歌詞を口ずさむのだという。曲がトリガーとなって、楽しさや高揚感が甦るのだ。彼女はこのとき過去に盆踊りをしたという出来事も頭に思い浮かべているかもしれない。
ただし、音楽療法によって、たとえば薬の投与量が減るといった確固たるエビデンスは、これまでのところ得られていないという。
「音楽療法を実施すると、認知症のさまざまな指標を改善させる場合があると報告されています。ところが、しばらくすると元に戻ってしまうんです。音楽療法が保険診療として認可されるための客観的なデータはまだ十分得られていません」(同)
とはいえ、私はこの療法の現場を見て、時限的という前提を踏まえてもその劇的な効果に驚嘆した。
飯塚さんの音楽療法を受ける武雄さんと美奈子さんは、音楽療法が全国にもっと広がってほしいと願っている。武雄さんは「私にも役に立っていますけど、みなさんの役にも立ってくれたら」と取材を引き受けた動機を語ってくれた。普及のためには保険適用が欠かせない。そしてそのために客観的な効果を示すデータが必要だ。
だが、音楽療法に客観的なデータを求めるのは野暮かもしれないとも思う。
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