共産党による「日本学術会議」私物化の歴史 半世紀前から指摘されていた問題点とは
組織を専断できた理由
ここで、誰もが当然不思議に思うはずである。日本共産党は一定の支持者はいるものの、日本社会の中でそれほど大きな勢力を占めているわけではない。政党支持率は3%に満たない。学者の世界でも、共産党員や熱心な同調者が多数派というわけではない。それなのに学術会議を「専断」できるのはなぜだろうか。『赤い巨塔』を読み、共産党の歴史を振り返ると、それを可能にしている四つの条件が浮かび上がる。
第一は、日本共産党という政党の特異な性格である。世界の共産主義運動に共通することだが、共産党員は共産主義に対する強固な信念と使命感を持ち、理論武装をして熱心に活動する。政党の性格は綱領よりもその活動原則に表れる。共産党の活動原則は戦前から「合法活動と非合法活動を組み合わせる」というもので、つまりは非合法活動を認めていた。その前提にあるのは「目的は手段を正当化する」という思想である。共産主義の理想を実現するためなら、法律を破ることも辞さない。
かくて、戦前は活動資金獲得のために銀行強盗を決行し、戦後は朝鮮戦争に「参加」し、スターリンや毛沢東の指令を受けて米軍の後方攪乱のために火焔瓶闘争や警官射殺事件など270件の騒擾事件を引き起こした。戦後の日本で「戦争をした政党」は日本共産党だけである。だから、日本共産党は今日でも破壊活動防止法(破防法)に基づく公安機関の監視対象となっている。
第二に、共産党はターゲットにした組織に「浸透工作」を行い、「さまざまな戦術」を駆使し、自分たちの目標とする決定を勝ち取る方法を心得ている。
一般に部分社会(例えば学者の世界)の中で少数派であっても一定数のメンバーが存在し、組織化され、明確な方針を持ち、熱心に活動すれば、その部分社会全体のヘゲモニーを握ることができるものだ。学校の職員会議でも1人では難しいが、活動家が2人いれば会議全体を牛耳ることができるという経験則がある。学者の世界では、一定の数のメンバーを擁し、組織化されて熱心に活動する集団は、共産党以外に無い。選挙になれば組織票がモノを言う。
『赤い巨塔』には、共産党の「戦術」の一つであるグループ会議の実態が描かれている。当時、東京教育大学(現・筑波大学)教授の大島康正は、共産党の指導下にある民主主義科学者協会(民科)に近い学者であると誤解されて中心人物のFに誘われ、共産党系のグループ会議に招かれた様子を書いている。
「百聞は一見にしかず、私は当日の会議の散開後、同氏の指定した上野のお山の中華料理店へ足を向けた。行ってみると驚いた。各部を通して左翼学者として著名な人々が、ズラリと顔を揃えていた。F氏はその最上席に坐していて、明日の[学術会議の]総会第2日目にはどういう議題が出る予定、そのとき反動派のMやNがこう言うかも知れない、それに対していま列席しているAは直ちに手を挙げて立って、こう反駁せよ、それを支持してBが次に立ってこう言え……という、細かい指示を与えていた。末席に列しながら私は、『何だ、これがいわゆるフラク会議[フラクション会議]というものか……』という思いを新たにした。そして、こういうお芝居をやる連中と戦わなければ、日本学術会議は駄目になると、ヒシヒシと感じた」
このF氏とは、11期33年にわたって会員を続け、「学術会議屋」とよばれて長期間にわたり日本学術会議を「専断」した党員学者・福島要一(農業経済学)であることは間違いない。
なお、共産党の指導下にあった民科は1950年前後の最盛期には、哲学部会、生物学部会など20近い数の部会を有していたが、スターリンが強要した生物学説の誤りが明らかになったことなどから権威を失い、50年代末から60年代前半頃までに多くは解体した。その中で民科法律部会は今日まで存続している。今回任命されなかった6人のうち、松宮孝明、岡田正則、小澤隆一の3人の法学者はいずれも民科法律部会の役員経験者である。
名ばかりの「学者の総意」
第三に、共産党は組織の中でいったん主導権を握り、目標とした決定を勝ち取ると、今度は「学者の総意」などと組織全体の名を僭称して一般国民向けにアピールする。その際、一見誰も否定できないような平和、人権、学問の自由などの大義名分を掲げるのを常とする。
今回の菅首相の任命拒否に、各分野の300余りの学会が反対声明を出したが、学会の執行部や理事会で勝手に決めたものが殆どであろう。会員の投票で民主的に決めたというなら、決定過程を公表すべきだ。そんなに沢山の学会が反対しているのだから、菅首相のしたことはとんでもないことらしいと、一般の国民に思わせるのが狙いである。しかし、これは全く反対に、それほど多くの学会が特定の勢力によって私物化されていると読み解かなければならないことである。
教育関係の学会は今も多くは共産党の影響下にある。教育基本法の改正が政治日程に上ったとき、日本教育学会が呼びかけ、主要な15学会が共同して、「教育基本法改正問題を考える」と題する公開シンポジウムを、2002年から2003年にかけてシリーズで開催した。最初の3回のシンポジウムでは12人の提案者が指名されたが、その全員が教育基本法改正に反対する論者であった。
教育基本法の成立過程についての研究者である杉原誠四郎は、所属する教育行政学会から提案者として推薦されていたのだが、改正賛成論者であるが故にシンポジウムでは外されていた。いやしくも学問の世界では、少数派の意見こそ尊重すべきであるのに、これでは学会ではなく、もはや政治的運動団体になったと言っても過言ではない。
シンポジウムの運営委員会が、改正論者の杉原誠四郎を4回目のシンポジウムの提案者に加えたのは、杉原が公開シンポジウムの場でフロアーから発言して厳重に抗議したあとであった(杉原誠四郎『新教育基本法の意義と本質』自由社刊)。
第四に、世間はそういう事情にあることを知らない。学者に過大な敬意を払うのは日本社会の特質で、日本学術会議は見かけ上、最も権威のある組織であるから、その宣伝効果は抜群である。
先の四つの条件があるところでは、同様のことはどこででも起こる。例えば日本弁護士連合会(日弁連)。2020年9月24日、東京弁護士会は臨時総会を開き、「死刑廃止に向け、まずは死刑執行停止を求める決議」を可決した。この決議は東京弁護士会所属の全弁護士の14%程度の会員の意思を反映したものに過ぎないし、総会でも否決されるはずの票数だったのに、執行部が票の操作までして決議にこぎ着けたものであることを、当の東京弁護士会所属の北村晴男弁護士が暴露している(産経新聞10月4日付)。
ここでも、「死刑制度廃止」という「正しい」目的のためには、不正な手段も許されるという独善が幅を利かせ、殆どの弁護士が死刑廃止論者であるかのような誤解を世間に与える結果になっている。しかし、国民の約8割は死刑制度の存続を望んでおり、その乖離ははなはだしい。
[2/3ページ]