ふかわりょうが「ぼっち旅」「一人焼肉」に抱く違和感 一人でいるのは当たり前では?
「一人焼肉」「ぼっち旅」…そもそも一人が普通なのでは
余談ですが、「友達少ないんで」と自虐的な笑いに走る人がいますが、この表現があまり好きではありません。というのも、友達が多いことが優れていて、少ないことがおかしいという前提で発しているからです。5人を少ないと思う人もいれば、多いと思う人もいるでしょうが、少ないことは決して笑いの対象になることではありません。私が望むのは、友達の数が尺度にならず、孤独や孤立が弱者として奇異な目を向けられない世の中です。
それでも友達の増減に一喜一憂してしまうのは、自分に自信がないからでしょうが、それも平和の証。生きることに必死だったら、そんなこと気にする暇さえありません。物質的な豊かさを手に入れると、精神的な充足感を求めてしまうのが人間の性質で、友達の数で得る充足感はまやかしのそれです。
一人焼肉を報告するインスタグラム。「本来は複数で食べる焼肉ですが、一人でも平気です」。しかし、本当になんとも思っていなかったら、そんなこと報告もしないし、「一人」を付け足さない。
同様に違和感を覚える「ぼっち旅」。一人ぼっちで行く旅。ちょっと待ってください。旅って一人が普通じゃないですか。ここにも、「本来は複数で行く旅にあえて一人でチャレンジしました」感。なぜ、一人を強調するのか。なぜ、一人で平気だとアピールするのか。普通なことなのに。そういう人に限って、いざ本当の孤独を味わうと、一人じゃいられなくなるタイプなのです。
人間は、本来孤独であって、一人が当たり前。孤独死だって、あえて「孤独」をつける必要もない。仲が悪いのも当たり前。それは夫婦だってそう。喧嘩しないことが「いい夫婦」ではありません。喧嘩しててもいい夫婦なのです。そういえば、サラリーマン川柳は、奥さんに尻に敷かれつつもそれを可笑しみで表現した男たちの悲哀が良かったのですが、最近では逆に、綺麗な奥様の写真を撮ってアップする「嫁グラフィー」なる潮流が生まれているそうです。うちの嫁最高だろう?って、最高だから結婚したのですから言う必要ないのです。「愛妻家」が目立つ世の中ですが、嫁を愛しているのは当たり前。むしろ、嫁をネタとして利用しているようで、違和感を覚えます。
好きな人とも嫌いな人とも距離を保つ
かつて深夜ラジオでは、食べ物の好き嫌いを言うようにパーソナリティーがアーティストの悪口を喋っていました。今では考えられないでしょう。誰だって、好きなものを汚されたら嫌ですし、あまりネガティヴな感情を表に出さない日本人の国民性というのもあります。でも、本当は好き嫌いがあって当然。それを公にするかは別として。少なくとも、嫌いを好きに変えようとする必要はなく、嫌いは嫌いのままでいい。嫌いになっちゃいけないという価値観が、人々を苦しめていると思うのです。
自慢じゃないですが、私は嫌いな人がたくさんいます。一般的にどれくらいが平均なのかわかりませんが、間違いなく多い方でしょう。嫌いという感情をエネルギーにするので、嫌いな人を好きになろうという努力もしません。また、嫌いというより、関わらないでおこうという人もいます。きっと、分かり合えないだろうから。嫌いだったのに、話したら好きに変わることもあり、その逆もありますが、総じて、嫌いが強い人間は、好きのエネルギーも強い気がします。
これだけ言っておいてなんですが、嫌いな人がたくさんいても、その人が消えて欲しいとは思いません。すごく嫌いな人でも亡くなったらそれはそれで悲しくはなります。意外といい奴だったよな、みたいに。商店街の中で全く利用はしないけど、なくなったらちょっと寂しくなる謎のブティックのような。ですから大切なのは、距離感。嫌いな人に対しては然るべき距離を保つことで、関係性を維持しています。それは仲がいい人も同様で、仲がいいからといって、あまり踏み込みすぎると嫌な面を見てしまうこともあります。
富士山も、どこから眺めるかで表情はまるで違います。遠くからは流麗ですが、至近距離だと荒々しさを感じたり。距離によって大きく異なる印象。近づくというのはそういうこと。憧れの野球部の先輩は、金網越しに眺めているのが一番美しいのです。だから、共に生活するのは富士山を登るようなもの。なんなら噴火だってあり得るわけですから。どんなに好きな場所でも、いざ住むとなると印象が変わるように。だから私は無責任かもしれませんが、どんな人でも、これ以上踏み込むと嫌いな部分も見えそうだなと感じるあたりで距離を保つことを心掛けています。ただ、そんな私も、昔は距離感をうまく掴めませんでした。
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