私が「どうぶつ奇想天外!」のディレクターを辞めて、テレビ業界と決別した理由

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みのもんたに可愛がられ…

 番組制作で動物たちを見つめる中で、子ども時代のザリガニ釣りや虫取りといった”原体験”が呼び起こされた。新人時代はコント番組に情熱を注いでいた佐藤さんだったが、もともと動物好きだったこともあって、動物番組にのめりこんでいった。

 ファルコンに入社して2~3年経ったころ始まったのが、佐藤さんがディレクター人生の大半を捧げることになる『どうぶつ奇想天外!』だ。

「テレビ番組は第1回目の放送が勝負です。局と制作会社合わせて何十人ものディレクターがいましたが、当時僕は『自然がいちばん!地球塾』での実績もあり、数字がとれるディレクターとして名が通っていました。そこで、番組の命運をかけるトップバッターとして僕に白羽の矢が立ったのです」

 佐藤さんが選んだ第1回目のテーマは、「猫」。当時は犬が圧倒的人気だったものの、「これから流行る」と確信してあえて猫で勝負した。初回の視聴率は10%。当時、『どうぶつ奇想天外!』は土曜日の夜8時に放送されていたが、その時間帯は『8時だョ!全員集合』以降全く視聴率がとれない鬼門の枠だった。そこで2ケタ台の視聴率をとったわけだから、局としては御の字。とはいえ、番組の人気は長くは続かず、第十数回目で早くも打ち切りの危機がやってきてしまう。「次の回で視聴率がとれないと番組が終わる」という局面で、佐藤さんはメキシコに飛び立った。

「当時メキシコでは、キラービーという研究用の攻撃性が強いアフリカ型ミツバチが施設から逃げ出し繁殖していました。現場は非常に暑く、一瞬だけ防護服を脱いだところを蜂に狙われ16箇所を刺されてしまったのです。熱い鉄の棒を押し付けられたような痛みでした。すぐに手当てされたので無事でしたが、遅かったら命を落としていたかもしれません。そのシーンの視聴率が、Jリーグの初のオールスター戦、野球の巨人対阪神の優勝戦という裏番組を出し抜いて、トップに躍り出ました。おかげで『どうぶつ奇想天外!』は延命したのです」

 番組の危機を救った佐藤さんの株は急上昇。司会のみのもんたからもかわいがられたという。

「番組で、みのさんが飼っているダックスフントの取材をすることになりました。よっぽど気を許しているディレクターじゃないと家に招くのは嫌でしょう。そこで指名されたのが僕でした。みのさんのお宅に5回くらいお邪魔し、ロケが終わるたびに、庭で酒盛りしてADたちと倒れるまで飲みました。みのさんと酒に関するエピソードは尽きません。居間には海賊船にあるような、かまぼこ型の宝箱が2つ置いてあり、開けると世界各国の酒が詰まっていました。帰り際にいつも『栄記! 好きなだけ持ってけ!』と袋に詰めてくれたのも良い思い出です。僕は酒が弱いので、お家に行くのはいつも恐る恐るでしたけどね(笑)」

故・千石先生との思い出

 佐藤さんは、『どうぶつ奇想天外!』に度々登場していた動物学者の千石正一さんとも親交が深かった。千石さんがガン末期、衰弱してほとんど立てない状態だったにもかかわらず、佐藤さんが家に訪ねると毎回手料理をふるまってくれたそうだ。

「僕自身も覚えていないんですが、昔インドネシア料理の『ナシゴレン』や『テンペ』が好きだと千石先生に言ったらしいんです。それを覚えてくれていて、ご自分は病気で食べられないのに僕のために作ってくれていたんですよ。今思うと、申し訳なくて……」

 千石さんは12年2月7日に亡くなった。死に際に立ち会うことはできなかった。番組にたびたび出演していた、さかなクンと「お見舞いに行こう」という話をしていたが、叶わなかったという。

「『気骨がある』という言葉が似合う方でした。ある日一緒に公園にロケに行ったとき、テキ屋に『おい、よくテレビに出てヘビに噛まれてる先生じゃねえかよ!』と絡まれたのですが、千石先生は『おう、そうだ!』ってタメ口で言い返してたんです。僕は『先生、テキ屋にタメ口はヤバい』って言って(笑)。『先生、ヘビに噛まれて怖くねえのかよ』っていうテキ屋の問いかけには、『あんたらの世界と同じで、相手のことちゃんと分かってりゃ怖くねえよ!』って返してて……。そうしたら急にテキ屋が『そうですか、ありがとうございます』って敬語で畏まったので拍子抜けしました。僕はドキドキでしたけど、千石先生は動物に対しても人に対しても、本当に怖いもの知らずでしたね」

 人に恵まれたディレクター時代だったが、2008年にテレビの現場を離れることを決断する。

「これはテレビ業界全体に言えることなのですが……90年代の後半頃から『こけおどし』みたいな番組作りが求められるようになりました。見せかけはスゴイ、だけれど内容がない、そんな番組が良しとされています。抵抗することもできないわけではなかったですが、ディレクターの威厳が失われてきて、プロデューサーや総合演出など、いろんな人が口を出すようになってきた。テロップひとつとっても色や出し方、出すタイミングまで細かく指示され、OKが出るまで毎晩徹夜させられていました。自分の番組が彼らの意向でどんどん改変されていくことに、嫌気が差してしまったのです」

 “視聴率最優先主義”のマイナス面も指摘する。

「大概の人は、新しくプロデューサーや総合演出になると、出世や評価につながる視聴率を求めるようになります。それ自体は悪いことではないですが、やり方というものがある。本当に伝えなければいけない真実を伝えず、嘘でもなんでもいいから数字を取りに行く。人気タレントを使ってとにかく派手なことをやればいいという考えに染まり、最も大切なことが見えなくなるんです。いまで例えるならば、とにかく派手なことを求める、ユーチューバー的番組作りとでもいえばいいのでしょうか。そうこうしているうち不整脈を患い、心臓の手術をすることになったのです。テレビの世界は徹夜がつきものですが、以来、体力的に無理をすることが難しくなってしまって……。それが決定打となり退職することにしました」

 退職後は知的障害者の施設で働きながら、なんとなく近所の公園でセミを撮ったりして過ごした。通りすがりの人に「なぜセミを撮っているんですか?」と聞かれるのがすごく辛かったそうだ。「ディレクター時代と違って、撮影しても世に出す機会がないわけですから。自分、何やってるんだろうって思いながら日々過ごしてましたね」。当時を思い出して佐藤さんは顔をしかめる。

 だが、地球環境を定点観測するかのような日々の何気ない記録こそが、動物を取り巻く問題を映し出すことに気が付き、10年間撮りためた映像をまとめたのが最新作の『マッカチン シャドー・ザ・パンデミック』だ。オリンピック会場開設のため住処の木を切り倒された生き物たちや、地球温暖化で本来生きるはずのない季節に生息するトンボやバッタ、セミの姿を収めたその作品を通して、佐藤さんは人間の傍若無人さを訴える。

 昨年11月下旬に都内で行われた上映会は、平日の昼間にもかかわらず満席だった。地上波ほどの影響力はないものの、想いは届くべき人に着実に届いている。

「フリーになった後、某テレビ局からオファーがありましたが断りました。真実を言えない番組を作る意味はありませんから」

 佐藤さんは力強く言った。

万亀すぱえ/編集者・ライター

週刊新潮WEB取材班編集

2021年1月1日掲載

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