私が「どうぶつ奇想天外!」のディレクターを辞めて、テレビ業界と決別した理由

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 あなたにとって「働くこと」の意味は何だろうか。TBS系テレビ番組『どうぶつ奇想天外!』のディレクターを長年務めた佐藤栄記さん(58)は、年収1千万円を稼ぐ地位を捨て、フリーの動物ジャーナリストに転身。現在は知的障害者施設で月給20万円の仕事をしながら、生き物たちを取り巻く問題を撮り続けている。

 最新作のドキュメンタリー『マッカチン シャドー・ザ・パンデミック』では、人間の都合で行き場を失う野生動物たちの姿を丸10年かけてカメラに収めた。動物ジャーナリストとしての収入は講演会や取材の謝礼のみで、こちらでの年収はわずか10万円ほど。自由に活動するためにスポンサーは見つけず、生活費を削って制作費を捻出している。都内で81歳の母と二人暮らし。母の年金は介護保険料などを差し引くとほぼゼロで、母を養いながらギリギリの暮らしをしている。高給を投げ打ってまで今の働き方をしているのは「自分に嘘をつきたくないから」だという。そんな佐藤さんの半生を紐解くと、「働くこと」の意味が見えてくる。

ディレクターから一転、力士志望に…

 少年時代から根っからの映画・テレビ好き。1985年、新卒22歳で制作会社のイーストに入社し、ビートたけしが出演する日本テレビ系のコント番組『OH!たけし』のADとしてキャリアをスタートさせた。

「たけしさんには、ずいぶんかわいがられました。僕は13年間柔道をやっていたバリバリの体育会系、体もでかくて髪型はパンチパーマでした。そのあたりが気に入られたのか、たびたびご飯をおごってもらったり、僕の仕事とは関係ない『オールナイトニッポン』にいきなり呼び出されて歌を歌わされたりしましたね」

 当時、イーストはTBS系の『わくわく動物ランド』というクイズ番組も制作していた。今でこそ動物ジャーナリストとして活躍する佐藤さんだが、当時は「コント番組こそが花形」という思いが強く、『わくわく』には興味がわかなかったという。26歳でディレクターデビュー。父親が元競輪選手ということもあり、自ら企画して競輪選手のドキュメンタリー番組を手がけた。

 が、ここで佐藤さんのテレビマン人生はいったん脇道へ……。ドキュメンタリーの撮影を通じ、柔道経験者として「自分もスポーツの世界で生きてみたかった」という思いが湧き出てきたという。とはいえ、そのときすでに27歳。唯一年齢制限なしでプロに挑戦できるスポーツが相撲だった。会社を辞めて半年間体を鍛え、28歳の誕生日にスポーツバッグに服だけ詰めて尾車部屋をアポなしで訪ねた。

 尾車親方は土俵の脇で2時間かけて話を聞いてくれたという。しかし話の最後、かけられた言葉は佐藤さんの期待とは違うものだった。

「君の目を見れば真剣だということは分かる。だけど、君とは15年くらい前に会いたかった」

 表向き、年齢制限はないとはいえ、やはり28歳から相撲の世界に入るのは厳しかった。目の前の夢を打ち砕かれ、結局戻る場所といったらテレビの世界しかなかった。しばらくフリーのディレクターとして活動していると、イースト時代の先輩から「ファルコンという制作会社を作るから入ってくれないか」とスカウトされる。そこでTBS系の『自然がいちばん!地球塾』という番組のディレクターに選ばれ、初めて動物番組に関わることになる。

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