【2020年に旅立った著名人】台湾を民主化した「李登輝」元総統 中国に屈しなかった「親日家」の素顔
「私は22歳まで日本人だった」。台湾の民主化を実現させた李登輝元総統の口癖である。李氏は学徒出陣し、陸軍少尉として名古屋で終戦を迎えている。(「週刊新潮」2020年8月13・20日号掲載の内容です)
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日本統治下の台湾出身の評論家、金美齢氏は言う。
「台湾と日本は半世紀にわたり歴史を共有しました。自我を排し客観的に解決策を考えることは、日本の教育で学んだとおっしゃっていました。勤勉さ、責任感といった日本精神の影響も受けて育っておられます。私心がなく公に尽くす姿勢が一貫していました」
1923年、台北郊外生まれ。父親は警察官だった。旧制台北高校に進む。読書好きで、新渡戸稲造の『武士道』、鈴木大拙や西田幾多郎の著作などは生涯の糧となった。京都帝国大学(現・京都大学)で農業経済学を学ぶが、学徒出陣。46年、台湾大学に編入学した。
二度にわたりアメリカに留学、研究を深める。農業問題についての報告が、蒋介石総統の長男、蒋経国に評価され、71年に国民党に入党。学者出身の政界人として重用される。副総統だった88年、蒋経国総統の病死に伴い、総統に就任。国民党政権は中国大陸出身者である「外省人」が中心。李氏は台湾出身者の「本省人」として初めての総統だ。
ジャーナリストの門田隆将氏は言う。
「後ろ盾もなく、形だけの総統、傀儡にすぎないと思われていました。蒋家、国民党、軍と強大な勢力がありましたが、本心を隠して大物に頭を下げ、ひとりひとり排除して民主化を進めた。静かなる革命でした。例えば軍の大物である郝伯村を、行政院長(首相)に起用。失敗するとわかっての智謀です。持ち上げてから消していきました」
96年に台湾総統選挙で初の直接選挙を実現。選挙前に中国は台湾近海にミサイルを発射し威嚇してきた。
「怖がることはない。シナリオは準備してある、と民心の動揺を押さえ、ひきしめた。それは見事な指導力だった」(門田氏)
李氏は当選。歴史や文化教育で台湾人の意識を自然に高めた。99年には中国と台湾は「特殊な国と国との関係」と表明した。中国は猛反発したが、動じなかった。2000年に総統を退任。
「総統時代から取材をしていますが、どう考えるかと逆に質問をしてくる。探求心が旺盛でした」(門田氏)
日本語で考える習慣は続いていた。
「書庫を見せて下さいましたが、日本の本でぎっしり。しかも新しいものが多く、驚いた。軍事や科学技術にも詳しい勉強家で話し好きです」(評論家の宮崎正弘氏)
来日を希望してもなかなかビザが発給されなかった。
「中国に気兼ねする動きが外務省や政治家にありました。01年、心臓病の治療のためでもすんなりとはいかず、当時の森喜朗首相のおかげでビザが下りた。翌年、講演目的での来日は実現できませんでした」(金氏)
国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏らの尽力で07年に来日した際は、靖国神社を参拝。台湾で海軍志願兵となり、マニラで戦死した兄の李登欽氏を慰霊した。
「靖国参拝への批判や中国からの横槍に揺らぐことがなかった。哲学を持った政治家で、迫力や器が違う。日本はアメリカに甘えすぎているとも考えていた」(外交評論家の田久保忠衛氏)
来日は18年の沖縄訪問が最後だが、日本での言論出版活動を続けた。台湾に巨大な灌漑施設を整備した八田與一氏の功績について繰り返し伝えるなど日本の台湾統治を客観的に評価した。
今年2月、誤嚥で体調を崩した。7月30日、多臓器不全のため97歳で逝去。
「中国にひれ伏すとは、毅然たる日本はどこにいったのか、と親身に訴えた。日本は自信を持っていい、しっかりしなさいと励ましても下さった」(門田氏)
実践躬行(じっせんきゅうこう)という言葉を大切にした。発言だけでなく、実際に行動で示した人だ。