【2020年に旅立った著名人】坂田藤十郎さん、リハビリを支えた妻に毎日「ありがとう」
初代坂田藤十郎とは上方和事(わごと)の創始者で、江戸歌舞伎の始祖である市川團十郎に並ぶ大名跡。江戸時代以来途絶え、231年にわたり封印されてきたその名跡を襲名した四代目坂田藤十郎さんは、生涯をかけて上方歌舞伎の再興に尽力した。(「週刊新潮」2020年12月10日号掲載の内容です)
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晩年に円熟の域に達したその芸を、演劇評論家の渡辺保さんはこう評する。
「藤十郎は義太夫狂言を得意として、原作の戯曲の原点に戻ることによって、作品の人間ドラマの普遍性を追求しようとした。古典文化を復興する、いわばルネッサンスの挑戦でした」
1931年、二代目中村鴈治郎の長男として京都で生まれる。9歳の初舞台で二代目中村扇雀を襲名した。49年、演劇評論家の武智鉄二が主宰した“武智歌舞伎”に参加。武智の計らいで文楽や能楽、京舞など一流の名人に師事し、研鑽を積む。
53年には250年ぶりに復活した近松門左衛門作「曽根崎心中」でお初を主演。お初が徳兵衛の手を引いて、死に場所へ走り去る場面など斬新な演出が絶賛され、当たり役となった。
「新しいタイプの女形を演じたのです。従来の女形は内輪(うちわ)で歩くけれど、藤十郎は外輪で歩く。藤十郎が体現したのは形にこだわらず、生きた人間の精神を表現することでした」(渡辺さん)
お初で一躍、“扇雀ブーム”を巻き起こし、映画スターとしても活躍。58年に女優の扇千景と結婚した。
81年、49歳で旗揚げしたのが近松門左衛門の作品を上演する「近松座」。演出は武智が担当、その助手を務めたのが作家の松井今朝子さんだ。奇しくも藤十郎さんは父方の親戚でもあった。
「若くして人気の絶頂に達しながら、ある時、スタッフや弟子もいる前で『もう自分にはかつての光はないんだよ』と平然と言われたのには驚きました。自分を客観的に見られる頭の良い方だったと思います」
近松作品は難解で台詞が難しい。それでも原作通りにやることを志し、「河庄」の治兵衛など立役にも挑む。
「滑稽でいながら愚かしく、それでいて可愛らしさもある関西の男の理想を演じていました」(松井さん)
90年に三代目中村鴈治郎を襲名。94年には人間国宝に認定される。座右の銘は「一生青春」。私生活でも艶話には事欠かなかった。
2002年には京都のホテルで50歳下の舞妓と密会。別れ際にバスローブをはだけた“ご開チン”写真が報じられたが、当人は「私が元気だと証明されて嬉しかった」と笑い飛ばし、妻の扇さんも「全然気にしてないわ」と毅然と対応した。
それから3年後の05年。73歳にして念願の坂田藤十郎の名跡を継ぎ、名実ともに上方歌舞伎の継承者になった。その道を支えてきた扇さんは言う。
「私も女優ですから、いわば職場結婚です。他の女性にももてるようでしたけれど、私にお鉢が回ってきたのはご縁。役者と結婚したという覚悟はありました」
息子二人を育て、政治家も務めながら、夫の身の回りの世話は寝る間を削ってこなす。夫婦で毎日1万歩のウォーキングも続けてきた。
「主人は初舞台から77年間一度も芝居を休まず、風邪を引いたこともなく、それだけが私の自慢でした」
昨年12月、京都・南座の公演は腰痛を抱えながら千秋楽まで務め、圧迫骨折とわかって入院。リハビリ施設が揃う病院へ移り、復帰を目指す。今年夏に肺炎を起こして療養は続くが、毎日通う妻に「ありがとう」の言葉も欠かさなかった。
「本人はどこも痛みがなく、苦しくもない。地方公演でホテルにいると思っていたから、目覚めると『今日は南座、楽屋に何時入り?』と聞いてました」(扇さん)
11月12日、老衰のため88歳で逝去。最後まで舞台に立つ気概は失せなかった。