【2020年に旅立った著名人】ノーベル物理学賞「小柴昌俊」さん 人を巻き込む力と、”特別扱い”を嫌った実直な人柄
2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さん。1987年、超新星爆発で放出された素粒子のニュートリノを世界で初めて観測、ニュートリノ天文学という新分野を切り開いた功績が認められた。(「週刊新潮」2020年11月26日号掲載の内容です)
科学技術ジャーナリストの中野不二男さんは言う。
「ノーベル賞の決定直後にNHKのインタビューを受けた際、“生活にどう役立つのでしょうか”と質問されて、小柴先生は、“何にも”と答えて相手を絶句させていました。基礎科学研究の偉大な成果なのに、誠実で正直な人でした」
ノンフィクション・ライターの西所正道さんも言う。
「ノーベル賞でも特別扱いは嫌だと、自宅からバスと電車で東大に移動していました。小柴先生だと気づいて驚いて席を譲ろうとする人にニコニコして固辞する。自宅近所の区立小学校から講演依頼が来ても断らない。子供の印象に残る話し方をして、給食も楽しみました」
1926年、愛知県の豊橋生まれ。父親は陸軍の軍人。幼くして母親を結核で亡くしている。陸軍幼年学校を志すが、小児麻痺で断念。右手は完治しなかった。
45年、旧制一高に入学。「物理に進めるはずがない」と教師が話すのを耳にして発奮。難関の東大理学部物理学科に合格した。
物理学科をビリで卒業したとよく語っていたが、働いて家計を支え、講義どころではなかったのだ。
後にノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎さんや南部陽一郎さんにかわいがられるなど人に恵まれた。アメリカ留学で頭角を現し、東大に戻り研究室を発足。
東大名誉教授で高エネルギー加速器研究機構名誉教授の山田作衛さんは、小柴さんが最初に教えた大学院生のひとりだ。
「まず言われたのは、いつかやり遂げる研究の卵を3つか4つ抱えて考え続けよということです。税金を使って研究しているのだから無駄はいけない。必要な物は徹底して値切れとも厳命されました。面倒見が良く親分のようでした」(山田さん)
陽子崩壊の観測を目指して岐阜県の神岡鉱山の地下に巨大な観測施設「カミオカンデ」の建設に乗り出す。
東大名誉教授で、東大宇宙線研究所の元所長、荒船次郎さんは振り返る。
「大きな予算を使う以上、たとえ陽子崩壊が見つからなくても、多様な可能性を持った施設であることを説明する必要があると考えていました。予算の申請書には超新星ニュートリノ観測の可能性についても触れ、その通りになったのです」
測定装置のメーカー、浜松ホトニクスの当時の社長、晝馬(ひるま)輝夫さんに直談判。高価な重要部品を半額に値切った。
「人をうまく巻き込み、交渉が上手。小柴先生なら仕方ないなあ、と説得できてしまうのです」(山田さん)
陽子の崩壊は観測できなかったが、87年2月、超新星爆発によるニュートリノを捉えた。なんと東大退官1カ月前の快挙だった。
「運が良いとやっかまれもしました。宇宙から誰にも等しく降り注いだもので、準備をしていたおかげで捉えられた、偶然ではないと話されていた」(中野さん)
小柴さんを欺いて、成果を横取りしようとしたアメリカの研究者を一喝して退散させた逸話も残る。
ノーベル賞受賞はこの15年後。76歳の時だ。ノーベル賞の賞金を投じて翌03年、「平成基礎科学財団」を設立。基礎科学の重要性と面白さを先頭に立って伝えた。
梶田隆章さんが15年にノーベル物理学賞を受賞するなど、優秀な弟子は枚挙にいとまがない。
59年に結婚した妻との間に1男1女を授かる。子煩悩で朝食と夕食を家族揃ってとった。女優の由美かおるのファンを公言したりと茶目っ気もあった。
11月12日、94歳で逝去。
毎年教え子らが集まるのを楽しみにしていた。各自の出来事をよく憶えていて、昔話に花が咲いたという。