【2020年に旅立った著名人】ギターの歴史を変えた革命児「エディ・ヴァン・ヘイレン」さん 超絶技巧を自慢しなかった天才の姿
アメリカのロックバンド「ヴァン・ヘイレン」のギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンさんは、「ギターの神」、「ギターのヒーロー」と呼ばれた。(「週刊新潮」2020年10月22日号掲載の内容です)
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音楽評論家の増渕英紀さんは言う。
「エディがどうやってその音を出しているのか、一流のギタリストもわからなかったほどの名手でした」
右手の指先で弦を叩きつける独特の動きもして音を生み出していたのである。
ヘヴィメタルとハードロックの専門誌「BURRN!」編集長の広瀬和生さんは振り返る。
「ギター奏法の歴史を変えた天才、革命児です。ライトハンド奏法と呼ばれましたが、奏法そのものはタッピング奏法として以前からあったものです。エディはそれを速弾きに交えてロックギターに新風を吹き込んだ。現在活躍するギタリストは必ずエディの影響を受けています。この技を隠さず、あまねく広めました。変わった技だから試したのではなく、自然と行き着いた奏法だと話していました。自慢なんてしなかった」
1955年、オランダ生まれ。父親はオランダ人でクラリネット奏者。母親はインドネシア出身。家族は60年代にアメリカに移住した。
カリフォルニア州パサデナで育つ。父親はエディさんと兄のアレックスにクラシックピアノを習わせた。ギターは独学だった。
兄らと「ヴァン・ヘイレン」を結成。演奏の巧みさと、天性のエンターテイナーと呼ばれたデイヴィッド・リー・ロスのボーカルで地元のクラブで評判となる。
78年にデビュー。アルバム「炎の導火線」でタッピング奏法が注目され、異例の売れ行きを示した。
「当時はディスコブームで、ロックの分野はパンクが主流。それでも心をつかむ力がありました」(増渕さん)
ハードロックの新時代を切り開いた。同年に初来日。日本人も衝撃を受け、大反響を呼ぶ。翌79年には武道館でも公演している。
アメリカではロックギターの第一人者に。82年、マイケル・ジャクソンに請われて、「今夜はビート・イット」のギターソロを担う。84年のアルバム「1984」に収録された「ジャンプ」は、全米トップを記録、日本でも大ヒットした。
ニッポン放送の元社長、亀渕昭信さんは思い出す。
「超絶技巧の持ち主なのに、これ見よがしな演奏や自己陶酔などしませんでした。演奏を楽しんでいる様子が伝わってきました」
ラジオDJで音楽評論家の山本さゆりさんも言う。
「エディのアイドルのような笑顔が忘れられません。ハードロックを聴かなかった人も引き込まれて、ファン層が広がりました」
曲作りもしていたエディさんは、流行には興味がないと語っていた。それでも売れ行きは衰えない。92年にはグラミー賞を受賞した。
「取材で自宅に伺いました。自分はスターじゃない、メンバーのひとりだよ、と言う素直な人。器の大きさを感じました」(広瀬さん)
2000年、舌癌が見つかると、金属製のギターピックをよく口に含んだのが原因と信じ込む。ヘビースモーカーでもあった。
「ピックを口に入れるのが癖のようでした。タッピング奏法で右手を使う時に、ピックの“置き場所”代わりにしていたのかもしれません」(山本さん)
舌癌を手術で克服。ロックの殿堂入りした07年には、81年から連れ添った女優のヴァレリー・バーティネリと離婚した。ひとり息子のウルフギャングは、06年からベーシストとして「ヴァン・ヘイレン」に加わる。
来日は13年が最後に。不調を感じさせなかったが、15年の秋以降、出演が途絶えてしまう。この頃から咽頭癌の治療を続けていた。
10月6日、65歳で逝去。
訃報は日本でも大きく扱われた。名曲「ジャンプ」は昨年もサントリーのテレビコマーシャルに使われた。