10年連続でトリをつとめた「美空ひばり」が“ヤクザ”で落選した日【NHK紅白裏面史】

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「NHK紅白歌合戦」の放送が間近に迫った。今年で71回目。視聴率は昭和期の80%台から30%台にまで落ちたが、テレビ界最大の音楽番組であることに変わりはない。トップ歌手たちが集い、きらびやかなステージが繰り広げられる。だが、光り輝くものには影がある。紅白の裏面史を振り返る。(視聴率は全てビデオリサーチ調べ、関東地区)

 紅白が最も大揺れとなったのは1973年の第24回にほかならない。故・美空ひばりさんが落選したからだ。

 昭和後期以降に生まれた人は「なんだ、一歌手の落選くらい」と思うかも知れない。だが、ひばりさんは誰もが認める歌謡界の女王だった。

 紅白には1957年から72年まで16回連続で出場。63年以降は10年連続でトリだった。これは今も破られていない記録だ。70年の第21回では紅組司会と大トリのどちらも任せられた。紅白の女王でもあったのだ。

 それほどまでの人が、どうして落とされたかというと、身内の問題。山口組系益田組の構成員とされていた実弟の故・加藤哲也さんが、賭博容疑などにより、1973年に3回も逮捕されたからだ。

 加藤さんはひばりさんの前座として歌謡ショーのステージにも立っていた。このため、全国の公共施設は「ひばりさんのショーにはホールを貸せない」という声を一斉に上げた。

 公共放送であるNHKは難しい選択を迫られた。ひばりさん排除の世論は日に日に高まるばかり。半面、ショーとは違い、哲也さんは紅白とは関係がない。このため、故・坂本朝一総局長は事前には「罪、親族におよばず」と口にしていた。

 だが、結局のところ、ひばりさんは落選する。発表されたのは1973年11月21日。断を下したのは郵政省(現総務省)から天下った故・小野吉郎会長だった。美空家と山口組三代目の故・田岡一雄組長の交際も問題視した。当時の警察庁による組織暴力取締りの強化方針も遠因となった。

 落選発表前、ひばりさん側への説明はなかった。だが、事前工作は行われた。紅白を仕切る演芸番組部長が、故・江利チエミさん、雪村いずみさん(83)との3人娘で出場しないかと持ち掛けたのだ。

 まるで余興のような扱い。前年まで10年連続でトリを務めたひばりさんが、これを受けるはずがなく、即座に突っぱねた。当時の音楽記者たちは「演芸番組部長は、ひばりさん側から断ったという形にしたかったのだろう」と読んだ。この工作がNHKとひばりさんの関係をこじらせた。

 一方、制作現場は落選させたくないという思いのほうが強かったという。亡くなった紅白スタッフの1人から「あの落選は間違い」と聞いたこともある。理由として、弟の不祥事の責任をひばりさんに負わせてしまったことと、誰もが知っていた田岡組長との関係を急に問題視したことを挙げた。

 戦後の芸能界と、興業を生業の1つとしていた暴力団の関係は周知のことで、芸能人側から付き合いを断つのは至難だった。付き合いを断り、襲撃された芸能人もいる。

 だが、芸能界と暴力団の関係を警察庁などの行政側が許さなくなり始めたのが、このころ。ひばりさんの落選は時代の節目でもあった。

 もしも出場させていたら、NHK批判が燎原の火のごとく広まったかも知れない。ひばりさんへの反発を招く結果になった可能性もある。やはり難しい選択だった。

「NHKに勝った」

 収まらないのが、ひばりさん側。そもそも落選の数年前からNHK側に「そろそろ紅白は卒業したい」と話しており、依頼されるので協力しているという意識だったからだ。

 なぜ、卒業を考えていたかというと、紅白の歌謡バラエティ化が始まっていたからである。ベテラン中心で歌唱力勝負の場だったはずが、天地真理(69)=1972年、第23回に初出場=らアイドル勢も出場するようになっていたためだ。

 ひばりさんは落選が決まった当日の夜、大阪・梅田コマ劇場のステージに立ち、「私は紅白など気にしていません」と宣言した。だが、内心は違ったようだ。急きょNET(現テレビ朝日)と話し合い、紅白の裏番組「美空ひばりショー」を企画。当日は計16曲歌った。紅白への対抗心をあらわにした。

 その後、ひばりさんはNHK全体と断絶する。番組に出ないどころか、スタッフと会おうともしなかった。同局側は落選翌年の1974年から紅白復帰を画策し始めたものの、袖にした。女王らしかった。

 その後もNHKが交渉を重ねた結果、ひばりさんがやっと同局の歌番組に出たのは1977年。紅白落選から4年も過ぎていた。それでも紅白は拒んだ。

 紅白への復帰は1979年の第30回記念大会。信頼するプロデューサーから懇願されたからだった。ただし、特別出演であり、「ひばりのマドロスさん」「リンゴ追分」「人生一路」の3曲を歌った。

 1990年の第41回で、長渕剛(64)がドイツのベルリンで3曲歌った時にはベテラン歌手から怒りの声が次々と上がったが、ひばりさんの時は違った。誰一人として不満を漏らさなかった。

 ひばりさんは歌い終える間際、目に涙を浮かべた。これを当時の一部マスコミは紅白への復帰をはたした感激からと報じたが、ひばりさんに肉薄していた音楽記者たちの見立ては異なる。

「ひばりさんの涙は『NHKに勝った』という思いから」

 実際、これを最後にひばりさんは紅白に出ていない。その訳は「出る理由がなくなった」。いかにも女王らしい。

 世論を考えると、ひばりさんの落選はやむを得なかったのかも知れない。半面、1979年に復帰するまでの7年間に美空一家に大きな変化があったわけではない。紅白は選考基準の不透明さが常に指摘されるが、ひばりさんの件もそうではないか。

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