「ビートルズはこれで解散!」と聞いたけれど、書かなかった「星加ルミ子」かく語りき
「僕は日本が大好きなんだ」
アカデミー賞受賞監督ロン・ハワードが作った映画「The Beatles EIGTHT Days A Week」で、ポールはジョンとの曲作りを回想し、「(互いにギターを抱え曲を作るとき)僕は左利きでジョンは右利き。鏡を見ているようだった」と語っている。
「ジョンも僕も子ども自分に母親を亡くしている。10代の頃はその悲しみから逃れるために曲を作っていった」「互いに意見をぶつけて作っていった。メロディーを探して、歌詞を書く。きちんとした譜面はない。歌詞を書いた紙だけ」「こういう感じで、ジョンと一緒に300曲は作ったと思う」
アルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」は彼ら自身が出演するテレビ映画のサントラとして製作された。67年のクリスマス特番として全英で放送されると、日本でも観たいというファンのために星加は買い付けに動いた。しかしどうにも値段が高すぎて手が出ない、しょんぼり帰国すると件の草野オーナーが「もう一回ロンドンに行って交渉してこい。TBSにゴールデンタイムをもらってしまった」
再びロンドンへ赴くが、しかし、まだ手が出ない。
ブライアン亡き後、ビートルズのメンバーが自分たちの会社「アップル」を作ったと聞き、訪ねて行った。
半地下にあった仮の事務所にジョンとポールがいて、経営者になるのがよほど嬉しいらしく、互いのネームプレートを眺めて悦に浸っていた。
「『マジカル・ミステリー・ツアー』のフィルムの買い付けに来たんだけど」
星加がおずおす切り出すと、「ルミ、ちょっと待ってて」と経営者になったポールが電話をかけはじめた。
「僕は日本が大好きなんだ。だから考えてあげて」
ポールの口利きで安く購入することができ、星加は4本のフィルムロールを抱えて帰国、テレビ放映と武道館上映会を無事開催することができた。
「僕と君が同じ歳? まさか!」
アップルの仮事務所からの帰りしな、ジョンが話しかけてきた。
「ルミ、ところで、君はいくつなんだい?」
年齢を答えると、信じられないという顔つきで「僕と君が同じ歳? まさか! パスポート見せて」
ジョンは1940年10月9日生まれ、星加は9月10日生まれ。「10」と「9」が同じである。
「そうなのか! なら君は僕の一つ上のエルダ―シスターだ!!」
二人とも港町出身だった。
「プレスリー聴いていたの? チャック・ベリーも!?」。
星加は青森八戸で近くの三沢基地から流れてくるFENで、ジョンはリバプールで雑音混じりのラジオ・ルクセンブルグでプレスリーを聴いて育った。
ジョンは星加の肩を叩いて言った。
「君は好きな音楽雑誌の編集者になった。僕はミュージシャンになった。これからもお互いに頑張ろうな」
人見知りで警戒心の強いジョンだった。それだけに「この一言は一生忘れません。ジョンって、本当に優しい人なんです」
ビートルズのラストライブは1969年1月30日のいわゆるルーフトップ・コンサートである。ビル屋上のゲリラライヴは警官に制止されるまで42分にわたって行われ、事実上最後のライヴ・パフォーマンスとなった。星加はこの時もロンドンにいた。
ラストナンバー「ゲット・バック」を歌い終えたジョンが、“I'd like to say "Thank you" on behalf of the group and ourselves and I hope we passed the audition.”(グループ代表として、ありがとう。オーディションに通るといいんだけど」と周囲を笑わせた。デビュー前にデッカのオーディションに落ちた自虐ネタだった。
「今、ビートルズが屋上でライブをやっているらしいんだけど、行ってみたら」
ウォーカー・ブラザーズを日本に招聘するためロンドンに滞在していた星加に、アップルの知り合いからが電話で教えてくれたのだ。
「私もよくわからないのよ。とにかく早く行ってみなさいよ」
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