【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語〈後編〉
彩子は頭が切れる
そして、このヘンリーの言葉は、じつはジャーディン・マセソンの歴史にとって重大な意味を持つ。19世紀以来、アジアでの成長を陰で支えてきた集団、「コンプラドール」である。
かつて帝国主義の全盛期、欧米の商人は競って中国に進出したが、そこで彼らは厄介な問題に直面した。言葉や商慣習の違い、有力者とのパイプ不足で、それを克服できるかどうかがビジネスを左右した。そこで、助け舟を出したのが「コンプラドール」だった。
英語に堪能で、有力者との仲介を担う中国人で、当然、その働きに応じた報酬も支払われる。それを元手に商売を始め、短期で巨額の資産を築く者も現れたという。
こう書くとすぐ“外資の手先”と非難するのもいるだろうが、話はそう単純ではない。じつは、中国のコンプラドールも歴史的評価は分かれる。ある者は中国の植民地化の手先とし、ある者は近代化の功労者とする。おそらく、その両方共に正しく、真実は中間辺りにあるのだろう。
この意味で明治維新直後、ジャーディン・マセソンで働いた吉田健三も、そうした一人だったと言える。
前篇で述べたように、元福井藩士の健三は入社後、新政府との折衝で活躍、巨額の報酬を手にした。それを元手に事業を起こし、養子の茂が受け継ぐ財産を築く。やがて成長した茂は自民党の「吉田学校」を生み、今の政界につながる道を開いた。
いわば、日本の歴史を作ったコンプラドールで、健三なしに子孫の麻生副総理はむろん、安倍内閣や菅内閣もなかっただろう。
興味深いのは、吉田茂が総理在任中、ジャーディン・マセソンとの関係を隠そうとした節もある事だ。
1954年10月、吉田は欧米歴訪の途中で英国を訪れるが、滞在中、週末をエセックス州のトニー・ケズウィックの別荘で過ごした。それを当時の新聞は一切報じず、英外務省の記録では、ここで吉田は三井絡みのビジネスを話し合っている。総理自ら、民間の商売に介入しようとでもしたのか。そして日本の外務省による日程表では、ケズウィック邸訪問に「此の項発表せず」との注意書きがあった。
幕末に来日したウィリアムから4代目、ヘンリー・ケズウィックも現在82歳、一昨年には甥のベン・ケズウィックに会長職を譲り、第一線から退いた。その彼が昨年夏、ロンドンの自宅で会った際、何気ない口調で「太郎は、あとどのくらい続けられるだろう」と訊いてきた。
前篇で述べたように、彼と麻生太郎は若い頃から親友で、家族ぐるみの交際をしてきた。その麻生もすでに80歳、そろそろ政界引退も囁かれ始めた。その後継者がいつ、誰になるか、噂や憶測も出ているが、ここでヘンリーが意外な人物の名を口にした。麻生の長女の彩子である。
彩子は東京大学を卒業後、英国に留学、その後出会ったフランス人と結婚したが、彼女の後見人的存在なのがケズウィック家らしい。ソファに深く腰を降ろしたまま、ヘンリーが穏やかな笑顔で続ける。
「彩子はフランス人と結婚して、今、パリに住んでるが、英国に来たらわが家で世話をするようにしている。つい最近も週末、子供たちを連れてうちに泊まっていったよ。私が見たところ、彩子は非常に頭が切れるし、精神的にもタフだ。いつか政界入りすれば、有力な政治家になれると思う。彼女が日本の総理大臣になれるよう願っているよ」
その瞬間、静寂に包まれた部屋で、全身にゾクッとするような衝撃を覚え、身じろぎもせずに彼の表情を見つめた。
もう10年以上も前、ロンドンでジャーディン・マセソンの人間から、真顔で「麻生は総理になれるか」と訊かれた事があった。似た言葉を彼らは、終戦直後、吉田茂について言ったかもしれない。いや、ひょっとしたら幕末、あの伊藤博文を英国に留学させた時もそうだったのでは。
明治維新以来、日本の歴史に深く関わったジャーディン・マセソン商会とケズウィック家、まさに、それを象徴するような言葉だった。
麻生太郎の政界引退と後継者で、すでに両家で話がついているかどうかは分からない。だが幕末の安政6年、横浜にウィリアム・ケズウィックが上陸して始まった物語は、令和に入り、次の世代へ受け継がれる。
横浜で潮風を受けて佇む古い石碑と、そこに刻まれた「英一番館跡」の文字、それは「過去はプロローグ」と語りかけているようでもあった。
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