【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語〈後編〉

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 明治維新を陰で仕掛けた英国のジャーディン・マセソン商会、その経営を担うケズウィック家。彼らなくして、吉田茂と麻生太郎という二人の総理は誕生しなかったと言われる。今も脈々と続く、国際ビジネスの名家と吉田・麻生家の知られざる絆を解き明かす。

 ジャーナリスト・徳本栄一郎(「週刊新潮」2020年11月19日号掲載)

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 横浜港に面した山下公園の近く、豪華客船が着岸する大桟橋の広場に、ある記念碑が建っている。古い石碑には「英一番館跡」の文字が彫られ、横の金属製プレートに英語と日本語で解説がある。

「イギリス人、ウイリアム・ケズウィックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物は、ジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が『英一番館』と呼んでいたのは、この地点である」

 幕末のペリー来航から6年後の1859年、安政6年に横浜は開港し、野心溢れる外国商人が一斉に来日した。若いウィリアムもその一人で、この記念碑は、明治から続くケズウィック家と吉田・麻生家の絆を象徴した。

 安倍内閣に続き、菅内閣でも副総理兼財務大臣の座にある麻生太郎、彼について「政界のサラブレッド」という言葉が使われる。夫人の父は鈴木善幸元総理で、母方の祖父は吉田茂元総理、その岳父は明治の元老・牧野伸顕で、さらに遡れば「維新の三傑」大久保利通まで行き着く。

 だが、吉田・麻生家の系譜を見る時、決して見逃せない重要な役割を果たした一族があった。それが世界史を変えたとされるジャーディン・マセソン商会、その経営を担うケズウィック家である。

 彼らなくして吉田茂、麻生太郎の二人の総理は誕生せず、今の自民党、いや日本の政界も全く違ったものになったはずだ。そして明治以来、両家は親から子へ、子から孫へと絆を受け継ぎ、水面下のコネクションを保ってきた。

 その始まりが明治維新直後、同社の横浜支店で働いた吉田健三だったこと、その巨額の遺産を養子の茂が食い潰してしまったのは前篇(【歴史発掘】「麻生家」と明治維新の陰で動いた英国「ケズウィック家」の知られざる物語(前篇))で述べた。一説には現在の貨幣価値で約30億円、それを芸者遊びなどで散財するのだが、そんな家庭環境のせいか、養母からよく「この子は気位が高い」と言われていたという。晩年に吉田茂自身、回顧録でこう振り返っている。

「不思議なもので、気位の高い子だとしばしばいわれていたせいか、いつか本当に気位の高い子になってしまった」

「これが他人の目からは傲慢と見られ、我儘と思われ、ワンマンなどといわれるような性格になった所以であろう。しかし、一方には他人の威圧に屈しない、痩我慢の強い、威圧に対してはむしろ反抗的な人間になったとも考えられる」(「大磯随想」)

 やがて成長した茂は、東京帝国大学を卒業後、外交官の道を歩み始めた。中国の奉天を皮切りにロンドンやローマで勤務、大正時代は第1次大戦のパリ講和会議に随行した。その後も天津や奉天の総領事、外務次官とキャリアを重ねるが、昭和に入りイタリア大使を終えた途端、閑職に追いやられてしまったという。

 その頃の茂の様子を、吉田茂の娘で麻生太郎の母、和子は、後に著書でこう証言した。

「職業上の身分は保たれるものの、命令が下るまでのあいだ待機している状態なわけですから、仕事などなにもありません。暇つぶしに書類の裏にお習字などしながら、さぞかし不愉快な日が続いたことと思いますが、それでも愚痴めいたことは口には出さず『人生は長いし、世の中は広いのだ』というような顔をしているところが立派でした」

「事務仕事などまるっきり不得意でしたし、若いときから鼻っ柱が強く、なんでもかでも頭から押えつけようとする人が嫌いでした。外交官試験に受かり、官補(かんぽ)になってまもないころ、父は麻布にあった自宅から霞が関の外務省まで毎朝馬に乗って通勤していました。ある朝、前方を歩いていく課長を追い越しぎわに父が馬上から挨拶をしたところ、課長はなにを勘違いされたのか頭を下げられたのだそうです。こんな話を自慢そうにするのですから、上役からはなにかとにらまれやすい父でした」(『父 吉田茂』

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