「オウム平田信」6000日の逃亡劇 「警視庁追跡班」の「極秘ファイル」が明かす捜査の全貌
大規模な追尾作戦を展開
それが、長きに亘る逃亡生活のスタート地点である。
仮谷さんの事件などで警察庁全国特別手配となったのは同年9月。
その間、平田は都内で運転免許証やパスポートの更新を堂々と済ます一方、三重県や徳島県の在家信者宅を訪れたり、焼肉屋で教団幹部らと落ち合ったり、と慌しく行動している。
北海道の実家に「元気でやっている」と電話を入れたのもこの時期だ。
捜査員が平田の姿を最後に現認したのは4月24日。〈上九一色村、呼称「山梨平場検問1」で職質〉(ファイルより以下同)
以降、約17年に亘り、捜査員は平田の影すら踏むことができなかった。
だが、追跡する上でのヒントが皆無だったわけではない。追跡班が当初からキーマンと睨んでいたのは、当時30代で、正看護師の資格を持つ美人信者・木村聡子(仮名)である。
95年末に作成された文書にはこうある。
<木村聡子 身長160センチ位、やせ型、おかっぱ頭 ※オウム真理教を脱会したと家族に言って、一時福島県内にある実家に戻ったが、時々所在不明になるなど不審行動がある他、現在所在不明となっており、特別手配被疑者のレポをしていると認められる〉 木村は平田を匿った疑いで97年に指名手配されてもいる(翌年時効)。 平田の追跡、それはすなわち木村を追跡すること。そう考えていた警視庁が木村に文字通り肉薄したのは、指名手配の前年、96年2月15日のことだった。 その前日に木村が東京・清瀬市在住の友人宅に泊まりにくることを掴んだ追跡班が大規模な追尾作戦を展開したのだ。 「最寄りの西武線清瀬駅から追尾を始めたのですが、木村の防衛意識は高かった。駅から駅に移動する度に乗降車を繰り返す。最終的に新宿駅に着いた時、追尾出来ていた捜査員は1、2名。そして、タカノフルーツパーラーの前で突然走りだした木村を我々は見送るしかなかった」(元搜査員)
店で余った料理を2~3人分パックに
だが追跡班は執念の捜査で木村が宮城県仙台市内の割烹店に勤め、店が借り上げた市内のアパートに住んでいたことを突き止める。ファイルによれば、木村の暮らしぶりは以下のようなものだった。
〈一人暮らしにしては、店で余った料理を2~3人分パックに入れて持って帰った。同僚がそんなに持って帰って悪くならないか尋ねても、「火を通せば大丈夫」と言って持ち帰った。(アパートの部屋には)テレビも置いてなかった。新聞、牛乳も取ってなかった。カーテンは一度も開けることはなかった。ドア上部の透明ガラスに白色画用紙を貼ったり、外部に面する浴室の窓にも室内側から目張りをするなど異常なまでの隠蔽工作が見られた〉
やはり平田を匿っていたのだ。しかし、時すでに遅し。部屋を突き止めた時、もうそこに2人の姿はなかった。
木村が店に電話して一方的に退職を伝えたのは追跡班が追尾に失敗した翌日、2月16日だった。
千載一遇のチャンスを逃した追跡班。新たに教団幹部や信者が逮捕される度に平田について事情聴取して回ったが、そこでも出てくるのは支援役の木村の影。そして、他の教団信者たちとは一線を画して逃走を続けていることだった。
〈平田は仙台から来たような話しぶりだった。どこかの部屋に隠れ住んでいる様子で、毎日修行しているようであった。平田は「俺はたいしたことはやっていないし、捕まってもいいや」などと話していた〉(95年8月に一時、平田と接触した林泰男の供述概要)
〈平田はどこか他の場所に行きたい様子であり、「神戸では震災があったので穴場かもしれないな」などとも言っていた〉(教団信者・北村浩一の供述概要)
〈西所沢アジトにいた時ポケベルに連絡があったので電話したら、そこは喫茶店と思われる場所で、取り次いでもらったところ、平田が出た。自分から平田の連絡先を聞くと、平田は何も持っていないので自分からまた連絡する、と言っていた〉(信者の供述概要)
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