「オウム平田信」6000日の逃亡劇 「警視庁追跡班」の「極秘ファイル」が明かす捜査の全貌
第二関節を使って切符を
出頭時の平田の着衣や所持物には、足取りを示すような物は何もなかった。
リュックサックの中には、下着や試供品のシャンプー、それからすでに廃止されているハイウェイカード。財布には現金11万円。運転免許証や携帯電話はなく、ダウンジャケットやシャツ、ジーンズのタグまで外すという念の入れようだった。
「平田は出頭するまでにいくつか電車を利用していますが、切符を購入する際にも指紋が付かないように気をつけた、と話しています。爪や指の第二関節を使って切符を持つなどした、と。指紋から足取りを割り出されることを恐れたのでしょう」(捜査閃係者)
それでも出頭直前、東京都内での平田の行動については概ね判明している。
都内の足取りのスタート地点はJR品川駅。
昨年12月31日午後8時半頃、駅員と話す平田の姿を、防犯カメラが捉えていた。
そこから山手線で大崎駅まで移動し、徒歩で大崎署へと向かった。だが、入口がよく分からなかったため、踵を返して大崎駅に戻る。
その途中、110番して自分の事件がどこの警察本部の担当になっているかを確認。行き先を警視庁本庁舎に変更したという。
大崎駅から恵比寿駅に移動。その後、平田は奇妙な行動に出る。駅を降り、周囲を1時間ほどあてもなくうろついた、というのだ。その理由として彼は先の滝本弁護士に、かつて近くに教団の本部があったことを挙げたという。事実、当時オウムが総本部を置いていた5階建てのビルは、恵比寿駅西口から徒歩20分ほどの場所に今もある。逃亡者の最後の“感傷的行動”だったのだろうか。
いずれにせよその後、平田は恵比寿駅から東京メトロ日比谷線で霞ケ関駅まで行き、警視庁本庁舎に出頭しようとしたが、機動隊員に取り合ってもらえずに断念。
年をまたぐ10分前、丸の内署に出頭したことは報道されている通りだ。
異常なまでの隠蔽工作
問題は、品川駅までの足取りである。大晦日の午後5時半、JR新大阪駅の防犯カメラが白いニット帽にマスク姿の平田の姿を捉えており、その後、新幹線に乗ったことが判明している。
新大阪までは地下鉄御堂筋線を使ったことも。さらに奈良県内から大阪に入った、との情報も浮上した。こうしたことが報じられ、警視庁には真偽不明の情報が多数寄せられたのだ。ちなみに新大阪駅で平田が着用していた帽子とマスク、それから「iPod nano」らしき物は、出頭時にはなくなっていた。
平田は関西地方に潜伏していたのか――。
複雑な思いで受け止めたのは、警視庁公安部の捜査官たちだ。中でも部内に設置された「平田追跡班」の70人から80人のメンバーにとって、“関西”は出来れば聞きたくない言葉だった。
「追跡班は正式名称を平田追跡本部といい、彼に関するあらゆる情報を精査し、その身柄を確保すべく捜査してきました。関東以北に関してはかなり大掛かりなローラー作戦を展開しました。ところが、その捜査網を関西地方まで広げる前の03年4月、追跡班は解散を命じられたのです。“関西が気になるな”という声もあったのですが……」(公安部関係者)
手元に、平田追跡班が中心となって集めた情報をまとめた「極秘ファイル」がある。
〈平田信の身上概要一覧表〉に〈平田信の「行動概要」一覧表〉。林泰男死刑囚を始めとする教団幹部らが平田について語った〈供述概要〉や関係者の〈筆跡照合〉一覧などが含まれた分厚いファイルだ。
その中に〈狙撃犯人としての適否について〉と題する文書が含まれている。
ご存知の通り、平田は未解決のまま時効を迎えた「国松孝次・警察庁長官狙撃事件」の実行犯と疑われ、故に警視庁は追跡班まで設置してその行方を血眼になって追ってきたのだ。
オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こしたのは95年3月20日。
その4日後の3月24日、平田は教団の富士山総本部である女性幹部から1000万円の逃走資金を受け取った。
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