「オウム平田信」6000日の逃亡劇 「警視庁追跡班」の「極秘ファイル」が明かす捜査の全貌

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《ヒラタマコトと思われる男が出頭して》

 2011年の大晦日、年をまたぐ10分前だった。約17年間もの逃亡生活の末に出頭したオウム真理教特別手配犯・平田信(46)。6000日の潜伏期間はそのまま、警視庁が血眼になって追い続けた時間でもある。その間、「追跡班」が積み上げてきた「極秘ファイル」が明かす捜査の全貌。そして、逃亡者の闇と嘘――。

(※「週刊新潮」2012年1月19日号に掲載された内容に編集を加えています。年齢や肩書などは当時のママです)

 2012年を迎えてほどなくした頃、自宅で休んでいた警視庁公安部捜査官の携帯電話が鳴った。

《ヒラタマコトと思われる男が出頭してきました至急本部(警視庁本庁)に上がって下さい》

 ヒラタって、あのオウムの平田信か? 喉元まで上がってきたそんな疑問を辛うじて呑み込み、了解、と告げて電話を切った。

 ヒラタマコトといえば、あの平田信に決まっている。

 急ぎ着替えを済ませて外へ飛び出し、肌を刺す冷気に身震いしながら考える。

 1995年から約17年もの間逃げ続けた平田が、今になって自ら出頭したというのか。

 そのほとんどの期間、痕跡すら残さず、あたかも幻影のように捜査の網からすり抜け続けたあの男が。胸の底に名状し難い感情が渦巻いていた。

 雪に閉ざされた北海道・帯広市。

 志村健二氏(仮名)は自宅でテレビの画面を凝視していた。

 志村氏は平田の母親の弟、つまり叔父にあたる。平田の父親は数年前に病死、母親も昨年7月に他界した。

 息子がオウムに入信して以来、奪還すべく手を尽くした2人。

 平田の名前が取りざたされた時、それまで黒々としていた母親の髪の毛は一夜にして真っ白になった。無念の死だったに違いない。

 2人が追い求めた息子が、闇から姿を現すように出頭した。速報を流すテレビの画面から志村氏は目を離せなかった。

亡き父の仏前で報告した

「姉(平田の母)の死因は脳梗塞。自宅居間のテーブルの前、座布団の上で息を引き取っていました。姉は息子のことを一切、口にしなかった。でも、早く出頭して欲しいとずっと思っていたはず。あいつが出頭した夜、私は朝までテレビを見続けました」(志村氏)

 平田にかけられた嫌疑は2件。1件目は95年2月28日に起こった目黒公証役場事務長・仮谷清志さん(当時68歳)拉致監禁致死事件。もう1件は、その19日後に起こった宗教学者・島田裕巳さん宅に爆弾が仕掛けられた事件だ。

「事件から7年ぶりに平田が出頭しました」

 仮谷さんの長男・実氏は1日朝、亡き父の仏前でそう報告した。実氏の話。

「平田は死んでいる、ともすれば殺されている可能性もあったのに、よくぞ生きていた、と思いました」

 1日夜、オウム真理教被害対策弁護団の滝本太郎弁護士は、年賀状を取りに事務所を訪れたついでにメールを確認した。

「平田容疑者が滝本さんとの接見を希望しています」

 先に接見した弁護士からであった。すぐさま大崎署に連絡をした。

「最初に接見したのは2日の朝。接見室には私が先に入ったと思います。彼は時に涙ぐみ、絞り出すようにしながらいろいろなことを話してくれました」

 それぞれがそれぞれの場で、様々な感情を抱いて受け止めた平田の出頭劇、それは6000日以上に及んだ逃亡劇の終着点であると同時に新たなミステリーの始まりでもあった。

 警察の取調べに対して平田は、事件についての供述は始めたものの、潜伏生活のことは固く口を閉ざしたのである。

 数少ない材料を頼りに少しずつ時計の針を巻き戻す作業がそこから始まった。

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