【2020年に旅立った著名人】初代ジェームズ・ボンド「ショーン・コネリー」さん 10年の下積み時代に磨いた人間力

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 人気スパイ映画「007」シリーズの第1作「ドクター・ノオ」が英国で公開されたのは1962年。以来、シリーズは半世紀以上続き、現在のジェームズ・ボンド役は6代目である。

 映画評論家の白井佳夫さんはスタート時を振り返る。(「週刊新潮」2020年11月12日号掲載の内容です)

「豪快なアクション、手に汗握るスリル、そして女性に手が早い。初代ボンド役のショーン・コネリーのギラギラした野性味、タフな姿に世界中の観客がすっかり魅了された。歴代のボンド役はコネリーが基準となり、比較されてきました」

 原作の小説を著したイアン・フレミングは、ボンドを、インテリジェンスの塊で、洗練された英国紳士、女性を引きつける甘さと冷たさを併せ持つ、と描いた。

 無名同然の俳優だったコネリーさんに目をつけたのは、テレンス・ヤング監督である。体格は申し分ないが無骨で俗っぽい。勢いよく歩いて去っていく身体の動かし方を見て、これぞボンドと決定したという。

 日本が舞台で、浜美枝さんがボンドガールとして好演した「007は二度死ぬ」(67年公開)は、シリーズ5作目。コネリーさんの転機となった作品でもある。

「ボンド役で世界的な名声を得たが、役の印象が強くなりすぎたと感じ始めた。報道陣にも追い回される。自分の名前はジェームズ・ボンドではないと不満が出てきたのです」(白井さん)

 ヒットしながら、その5作目でボンド役を離れた。しかし2代目は不評で1作限り。請われてコネリーさんが7作目だけ復帰、その後、ロジャー・ムーアが起用されシリーズは安定する。

「渥美清さん以外に寅さんは考えられないのと同じようなものでした」(映画評論家の北川れい子さん)

 30年、英国北部スコットランドのエディンバラ近郊生まれ。家は貧しく、小学生の時から牛乳配達で家計を助けた。10代半ばで海軍に入隊するが、胃潰瘍が見つかり除隊。働きながらボディービルで体を鍛えた。演劇に興味を持つと図書館で独学。「007」に抜擢されるまで舞台や映画での下積み経験は約10年に及ぶ。

「演技力だけでなく、幼い頃から働いた経験や、端役時代の苦労で培われた人間力がありました。有名になっても浮かれていない。だからアクションスターから脱皮して長く活躍できた」(映画評論家の垣井道弘さん)

「薔薇の名前」(86年)は変死事件の解明に乗り出す修道士役とイメージを一変、禁酒法時代のシカゴを舞台にギャングと闘う捜査官を描いた「アンタッチャブル」(87年)の老警官役は共感を呼び、アカデミー賞の助演男優賞を受賞している。

「007」シリーズをはじめ、コネリーさんの多くの作品の吹き替えを担った声優の若山弦蔵さんは言う。

「私はイメージを壊さないことをまず心がけてきました。『007』の成功に安住せず、そこから踏み出す勇気や自分を向上させ、役の幅を広げようと挑戦する姿勢に魅力を感じました」

 気分転換はゴルフ。教育機関に多額の寄付も行った。

 故郷スコットランドの訛りを大切にしており、独立運動の支持者だ。2000年にエリザベス女王からナイトの爵位を受けた際、授与式にスコットランドの民族衣装を着て臨んでいる。

 映画出演は03年が最後、12年まで声の出演を続けた。

 住まいがあるカリブ海の島国バハマで、90歳で逝去。訃報は10月31日に広がった。

 浜美枝さんは、所属事務所を通じて、「撮影現場に戸惑っていた私に、『大丈夫?心配事はない?』と毎朝、声をかけてくださったのがショーン・コネリーさんでした。人を包み込むような優しいまなざし、深みのある穏やかな声を今も忘れることができません。弱い立場の若いスタッフをさりげなくフォローするような、人間的魅力にあふれた人物でした」などとコメントを発表。感謝と哀悼の意を丁重に示した。

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