ビートルズ解散50年、ジョンの死から40年 日本人で初めて取材した「星加ルミ子」インタビュー
マネージャーに手紙を出した
62年10月「ラブ・ミー・ドゥ」でビートルズは本国、イギリスでデビューする。日本での正式なデビューはその2年後、64年だ。しかし流行に敏感な若い女性の嗅覚は鋭かったようだ。日本デビューした直後の『ミュージック・ライフ』では早くもビートルズの特集を組んでいる。
「編集部に遊びにきた女の子たちが『ビートルズの新しい写真ないの?』って口々に言う。『FENではビートルズばっかりかかっているわよ!』って。東京の高校生たちです。ビートルズって人気があるんだ、もしかしたら大変なグループなのかも」
胸いっぱいに空気を吸い込み、ふぅーっと息を吐けばそれがそのまま美しい音楽になっている。デビュー当時のビートルズはそんな初々しさがあった。
「会社のオーナーで専務だった草野昌一さんが、『資料がないんだったらさっさとロンドンに行ってこい。金は幾らでも出すから』と言ったんです」
そんな冗談をと思いつつ、星加はビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインに手紙を出した。
待つこと2週間、「『アブソリュートリー、ノット(絶対、ダメ)』と返ってきました。『世界中のマスコミから取材の申し込みが殺到している。あなた一人を許すわけにはいかない』」
「ダメといわれて燃えました(笑)。世の中に不可能なことなんてない!」
ロンドンのEMIレコードから連絡が入る。
《1965年6月からレコーディングすることになった。取材陣はひとます待機するように》
「よし。行って来い」と草野が指示した。
取材できる確約はない。しかし、勝算もあった。当時、多くのミュージシャンはマスコミ嫌いだった。というのも、今とは異なり意地悪い質問を平気でする記者が多かったのだ。
会社が傾くほどの旅費が決裁され
「私は24歳。おかっぱ頭で、小柄で、2年も勉強したのに英語だってたどたどしい。そんな記者なら警戒心を解いてくれるのではと草野は思ったんでしょう(笑)」
当時、1ドル=360円。航空運賃は途方もなく、会社が傾くほどの旅費が決裁され羽田から送り出された。弱冠24歳で編集長に大抜擢の上である。
「これだけの投資をされたのだから絶対ビートルズに会わないと」。もうひとつ。「『ミュージック・ライフ』は今でこそ3万部だけど、インタビューに成功したら10万部はいける。私が頑張らなくっちゃ」
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