ビートルズ解散50年、ジョンの死から40年 日本人で初めて取材した「星加ルミ子」インタビュー

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4人はリラックスしていたのに

 今年80歳となった星加(ほしか)ルミ子は、日本人で初めてビートルズの単独インタビューを行った人物だ。ビートルズ解散から半世紀、ジョン・レノンが凶弾に倒れて40年の節目に、当時を振り返ってくれた。

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 星加ルミ子の青春を紐解くと1960年代の実相が見事に浮き彫りになる。

 60年代の最大のアイコンといえばビートルズにおいて他にない。

 星加は日本人ジャーナリストで初めて彼らの単独インタビューに成功し、戦後のベビーブーマー世代のアイドル、ビートルズに世界で最も近い人物として知られた編集者、ロックライターである。とりわけジョンとの交流は彼女の半生にこの上なく幸福な時間をもたらした。

 ビートルズが解散して半世紀が経ち、僕は星加ルミ子と2020年初冬の北の丸公園を歩いた。日本武道館が目に入る。

 1966年6月30日夜、7月1日昼夜、2日昼夜、3000人の警官に囲まれて初めて日本武道館でライブを敢行したのがビートルズで、「ブドーカン」は今では世界に冠たるロックの聖地となった。

 6月29日、台風の影響で午前3時40分に羽田に降りたったジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人はパトカーに先導されながら午前4時東京ヒルトンに到着し、午後から真珠の間で記者会見に臨んだ。

 代表4社の記者に対して30分間、「4人はリラックスしていたのに、記者の方が緊張して、『日本の印象はどう思われますか?』なんて質問して、着いたばかりで一歩も外に出ていないのに(笑)」と星加は振り返る。

どこにでもいる音楽好きの女子大生

 翌日から日本公演は赤いシャツに黒いスーツ姿。

「武道館公演のときはね、会場に入れないファンのためにあちこちの拡声器からライブを流していたのよ。会場内は1万人。外は2万人はいたんじゃないかしら。最後の公演はアリーナの片隅から観ました。ジョンはサングラスをかけていてね。目が悪いんだと聞いていた。ああ、こういう煌々と照らしているライトに弱いからメガネなんだなって。5回目のラストステージに来た人はジョンのサングラス姿を見ていると思いますね」

 彼女がビートルズに会ったのはその前年の65年夏。東京⇔ロンドンは20時間を要した時代である。当時の人気洋楽雑誌は『ミュージック・ライフ』(現在は休刊)。

 そもそもそんな雑誌の存在すら知らなかったという星加は青森県八戸市から上京、本郷にある東洋女子短期大学の英文科に通っていた。

 高校時代から三沢米軍基地のFENを聴いて育った彼女はどこにでもいる音楽好きの女子大生だった。

「でね、その『ミュージック・ライフ』が銀座のジャズ喫茶にポンって置いてあったんです。奥付に『ものすごく忙しくてかなわない。若くて可愛い女の子、手伝いに来てくれないかなぁ』と編集スタッフがぼやいている文章があるのを目にしたんです。まぁ、可愛いかどうかは別にして、自分が若いのは間違いない。店の赤電話からその場で連絡したんです。そうしたら『明日から来れるかな?』って」

 半年後に卒業を控えていた彼女は神田の編集部で雑用係のアルバイトを始める。

「『ミュージック・ライフ』は書店には置かれていませんでした。楽器屋とかジャズ喫茶のラックにあるマイナーな洋楽専門誌だった。卒業を前に入社したらどう? って薦められました。でもいったんは断りました。いつ潰れるかもわからないし。でも当面することもない。まあ、腰かけでもいいから編集っていうものをやっていてもいいかなって、思い直したんです」。就職は昭和36(1961)年の4月だった。「編集作業はすべて先輩たちの見よう見まねです。何しろ小さな所帯だから編集しているのか、広告を取って集金しているのかわからなかった(笑)。2年くらいで編集のイロハがわかってきて、そのうち古参になっちゃった。そんなときです。ビートルズが出てきたのは」

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