「産業遺産」の中に日本再興の鍵がある――加藤康子(産業遺産情報センター長)【佐藤優の頂上対決】
韓国の執拗な妨害工作を乗り越え、「世界遺産」となった「明治日本の産業革命遺産」。その概要を展示する施設が今年3月、東京にオープンした。幕末から明治の日本は、国内に技術のある人材を育成し、産業を興し、非西洋圏で初めて近代化を成し遂げた。その時代の気概がいま求められている。
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佐藤 今年3月、内閣府の「産業遺産情報センター」が開設され、所長に就任されました。ここは2015年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を紹介する施設ですね。
加藤 はい、何とか開館までこぎつけました。6月から一般公開を始めましたが、事前予約をしていただいています。入館料は無料です。
佐藤 世界文化遺産登録は、加藤先生の奮闘なくしては実現しませんでした。文化外交のプレーヤーとして、日本と世界に大きなインパクトをもたらしたと思います。
加藤 幕末から明治後期にかけて日本が成し遂げたことは、世界史に残る重要な出来事です。西欧列強がアジアの国々を植民地化していく中、日本は殖産興業と富国強兵によって非西洋圏では初めて近代国家として認められました。たった50年で士農工商の封建社会を崩し、人材を育成し、工業立国の土台を築いたのは誇るべきことです。
佐藤 その担い手の多くは武士でした。
加藤 そうとも言えますね。明治維新後、侍たちは失業者になりますが、彼らを糾合してカンパニーを作り、それが工業化の土台になりました。そして外国に人材を派遣したり、迎え入れたりしながら、ベスト・アンド・ブライテストを作っていった。
佐藤 そこで明治政府は「システム」を作ったわけですね。
加藤 そう、システムです。それまでの日本には匠の技はありましたが、産業システムはなかった。
佐藤 日本ではいまも講座派(日本共産党系)の影響が強く、明治時代は絶対天皇制が誕生・強化された封建制で、それが軍国主義になったという歴史観があります。ですから、近代化をシステムの面から見ていく作業はとても重要だと思います。
加藤 当時がどんな時代だったかといえば、1842年にアヘン戦争で清国がイギリスに敗れ、1853年にはペリーが浦賀に来航します。江戸幕府も諸藩も海防への危機感から、鉄製大砲に挑み、また2世紀余り続いた大型船建造の禁を解いて洋式船の建造にも乗り出しました。
佐藤 「泰平の眠りを覚ます上喜撰」ですね。
加藤 ただ鎖国していましたから、西洋科学の情報は限られている。だから従来の匠の技をベースに、蘭書の設計図を頼りに試行錯誤を繰り返しながら鉄製大砲の鋳造に挑みます。佐賀をはじめ、薩摩や韮山など全国に反射炉が11カ所、釜石など高炉が19カ所できます。さらには風力や水力しかなかったのに、蒸気船にも挑戦した。でも造船は高度な総合産業ですから、やっぱり書物の情報だけではうまくいかないんですね。
佐藤 技術を持った人の出入りが必要となる。
加藤 だから開港開国して、貿易商人やお雇い外国人を入れ、輸入に切り替えていきました。
武士たちの明治
佐藤 その中で明治維新が起きます。
加藤 明治の新体制で士農工商が崩れると、侍が工業や商業に携わるようになり、外国にも留学して技術を学んで帰ってきます。そこでやっと人材が揃って、大量生産のシステムができてくる。
佐藤 例えば岩崎弥太郎が三菱を興すわけですね。
加藤 三菱の三綱領は「所期奉公、処事光明、立業貿易」です。薩長は都に上り、土佐の岩崎はカンパニーをつくり、工をもって国を興そうと考える。でも気位の高いお侍が、明日から商いをやれ、お客に頭を下げろと言われてもできないでしょう。そこで扇子に小判の絵を描き「これに頭を下げると思え」。またおかめの面を見せて「これに笑うと思え」と、お客さまへの笑顔の接客を教えます。おかめの面は三菱UFJ銀行本店の金庫に三菱の宝物として大切に保管されているそうです。
佐藤 当然ながらそのシステムを作っていくのは、薩長土肥の武士たちですね。一方の佐幕派には興味深い傾向があります。実は日本のプロテスタントの多くは佐幕派出身です。その時代の佐幕派の鬱屈した青年たちは、新渡戸稲造にしても新島襄にしても、あるいは内村鑑三にしても、宗教や教育の道に進んだ。それなら頭を下げないでいいし、キャリアパスもありましたから。
加藤 それは面白い指摘ですね。逆に商いのため客に頭を下げることを学んだ侍たちは、工業においても、船を造るにあたってもすごく頑張ります。日本で最初の大型貨物船「常陸丸」の建造では、たいへん苦しみました。それまで千トン級の船しか造ったことのなかった三菱が6千トン級の船に挑戦します。でも船舶建造と保守の基準を定めるイギリスのロイド船級協会がなかなか認定してくれない。例えば「リべットの打ち方が悪い」と難癖を付けられる。すると彼らは、灯明の明かりの中で六十余万のリベットを打検(だけん)したといいます。侍の意地というか、侍でなければできなかったと思いましたね。
佐藤 できないと言うのは、武士として屈辱ですから。
加藤 製鉄でも非常に苦労します。幕末に釜石で盛岡藩の大島高任(たかとう)が、蘭書片手に古来の知識に工夫を重ね、地元の鉄鉱石を原料として、還元剤は木炭、送風動力は水車の木炭高炉法で出銑(しゅっせん)に成功します。日本には砂鉄を原料とする「たたら」の伝統がありましたが、「たたら製鉄法」は毎回炉を解体して鉄を取り出していました。高任は炉を壊さず連続出銑できる高炉法への転換に成功し、近代製鉄へと一歩を踏み出します。ただその後も苦難の連続で、明治政府はイギリスから設備を導入して官営釜石製鉄所を開所しますが、うまくいかず3年でギブアップ。民間の田中長兵衛に払い下げられました。田中製鉄所では48回失敗しても挫折せず、49回目にコークスを還元剤とした高炉の稼働に成功するんです。これが日本製鉄の始まりです。
佐藤 釜石は太平洋戦争で英米の連合艦隊から艦砲射撃されます。日本を支えている場所であることが十分認識されていました。
加藤 明治の産業革命遺産は、九州、山口を中心に、この釜石や静岡県伊豆の国市の韮山反射炉も加えて、8県11都市、23の遺産を日本の近代化の重要な要素として組み合わせ、シリアルノミネーションという形で申請して登録されました。
佐藤 それらがシステムとして定着するのはいつくらいですか。
加藤 日露戦争のちょっと前です。日清戦争後に、例えば造船では、造船奨励法や航海奨励法が公布されます。それを受けて、造船業にお金をつぎ込んでいく。
佐藤 法整備とリンクしている。
加藤 大まかに時代を分けると、幕末、西洋の科学技術の情報が限られていた中で、海防への危機感から蘭書片手に反射炉や高炉を建設して大砲鋳造に挑んだ「試行錯誤の挑戦の時代」。次に開港後、西洋の貿易商人を介し、また明治新政府の下で、官営期のお雇い外国人などにより技術が輸入された「西洋技術の導入期」。この時期に多くの留学生が海外で学び、日本の職人たちも西洋技術に習熟していきました。そして人材が育ち、大量生産システムの確立した「産業基盤の確立期」になります。1910年には当時世界の工場だったイギリスで日英博覧会が開催されました。官営八幡製鉄所など日本の技術が世界にお披露目され、工業国として認知されました。
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