【2020年に旅立った著名人】芸能レポーター「須藤甚一郎」 芸能人も恐れをなした「現場力」

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 芸能レポーターの須藤甚一郎さんは、粘り強い取材と痛い所を容赦なく突く質問で、芸能人に煙たがられもした。近藤真彦から面と向かって「あなたには答えない」と言い放たれたことも。(「週刊新潮」2020年8月27日号掲載の内容です)

 芸能レポーターとして活躍した藤田恵子さんは言う。

「甚さんは毒舌で下品と見られていました。でも、そんな人ではないのです。レポーターとして後発だった自分を印象づけるためにも、聞きにくいことをズバッと聞くんだ、と話してくれたことがあります。相手を怒らせて反論させるのも甚さんの技です。いかに本心を引き出し、思わず現れた一言や表情を伝えるか、現場を大切にしていました」

 1939年、東京・板橋生まれ。父親は須藤さんが小学生の時に病気で他界。生活は苦しく、古書店で働きながら、都立小石川高校の定時制に通う。さらに、早稲田大学第二政治経済学部(夜間)を卒業した。

 女性用下着のトリンプに就職後、67年、「女性自身」の記者となり、71年の「微笑」創刊でも活躍。芸能より社会派で、あさま山荘事件などを最前線で取材。原点はジャーナリストだ。78年、テレビ朝日系の「アフタヌーンショー」にレギュラー出演し、時の人に。

 芸能レポーターの石川敏男さんは思い出す。

「芸能以外でも一目置かれた。ロス疑惑の取材では、2階にいる三浦和義さんに、棒の先に質問を書いた紙をつけて見せていました。映像としても面白く、アイデアが豊富でした」

 84年公開の映画「Wの悲劇」で、先の藤田さん、梨元勝さん、福岡翼さんらと芸能レポーター役を好演。薬師丸ひろ子が演じる若手女優に、記者会見で厳しい質問をぶつける重要な場面だ。

 85年、松田聖子と神田正輝の結婚会見では、「聖子さん、あなたは生まれ変わっても」と切り出した。ざわめきの後、場が凍りついた。「神田さんと一緒になるんですね」と言葉を継いで、会場は爆笑。同年初めに聖子が破局を明かした相手、郷ひろみの名前を出して慶事をぶち壊しはしなかったが、皮肉交じりの質問でふたりの表情の変化を導いた。

「アフタヌーンショー」の終了後も他のワイドショーから引く手あまただった。

「(92年の)宮沢りえと貴花田(当時)の交際時、私はりえちゃんが男物のハンカチを持っているのを見つけて質問しました。甚さんは、俺達は気づけなかった、いい質問だったよ、とほめてくれた。素直で、心が温かい人でした」(藤田さん)

 芸能人にたかるハエよばわりされると、ハエが集まるあなたは何だと切り返す。

「がらっぱちに見えましたが、これを聞かずして何を聞く、という覚悟がありました。やり込めるのではなく人間を浮き彫りにしようとしていました」(石川さん)

 長男の健太郎さんは言う。

「一撃で突くような鋭さは家族に対してもあって、厳しかった。自分の気持ちを貫け、とよく言われました」

 99年、東京の目黒区議選挙に無所属で立候補して初当選。文部大臣や法務大臣を務めた鳩山邦夫さんの影響だった。70年代初めから親しかったという。2001年、参院選の比例代表で民主党から立候補して落選。

 03年から目黒区議選で4期連続トップ当選を果たす。昨年は2位当選で、6期目の在任中だった。

「おかしいと思えば追及し、行動する姿勢は芸能取材の頃も議員になってからも一貫していた」(健太郎さん)

 親しかった作家の小中陽太郎さんは言う。

「スキャンダルを伝える時もきれいごとを言わない。実直で飾らない庶民的な人で、昔から変わりません」

 昨年9月、熱中症で倒れ、今年に入り誤嚥性肺炎も発症した。8月11日、多臓器不全のため、81歳で逝去。

 晩年に秘話の披露を求められると、包み隠さず取材してきたから打ち明け話なんてないよ、と語る気骨の人だった。

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